先日、長女は自分の作った俳句をお帳面にはさんで登園しました。この日の朝の出来事はわたしたちにとって大きな経験でした。
その数日前、夕ごはんのあと「夜の俳句をつくる」とおもむろに言い、鉛筆を手に(書くことのできるひらがなはまだ半分くらい)、考え始めました。でも、どこからどう考えたらよいのかわからない様子。作りたい気持ちが空回りして、前に進みません。
わたしはお皿洗いを切り上げて、「待ってました」とばかりに横に座りました。彼女は石橋を叩いて渡るタイプで、新しいことにチャレンジするのが苦手。なにかに誘うと「やらない」「できないから」と即答するのがお決まりです。いちど朝の俳句を一緒に考えたことがありましたが、それ以降は特に意欲をみせることもなかったので、嬉しかったのです。
夜のどんなことを俳句にする?夜ってどんな感じ?など話しているうちに、たとえばこんなふうにも作れるよね、と適当な五七五のことばを例に出すと、3歳の妹(姉とは逆で、何も考えずにまずやってみるタイプ)も適当にことばを並べて「はいくみつけた~」とケラケラ笑います。「そんなの俳句じゃない!」と長女。たしかにちっとも五七五ではありません。そうこうしているうちに、「もう作らない!もうやだ!」と怒ってやめてしまいました。そのあと泣き始めたのですが、彼女が投げ出したことにがっかりしてしまって、わたしは優しく接することができませんでした。
あんまりわんわん泣くものだから、ちょっとずつ話してみると、母親と妹にはできたのに、自分が作れなかったことが悔しかったようでした(「悔しい」という感情に初めて気づいた機会だったかもしれません)。また、その日は俳句の時間があって、たくさんのお友達の俳句の紹介があり、作りたい気持ちが湧いてきたこと、そして翌々日の参観日に自分の俳句を持っていきたいんだな、ということがわかりました。
園長先生が折にふれ「階段のてっぺんで手招きしてせかすのではなく、一緒に階段を登ること」と話してくださいます。この晩、わたしは一緒に階段を登っているつもりでした。でも、彼女からしたらそうではなくて、ぱーっと先に階段を上がってしまっていたんですね。例を出されると、彼女にはそれが答えになってしまって、何も出てこなくなるようでした。せっかくやる気になったのに、失敗したなあ、難しいな、どうすればよかったのかな…と考え込んでました。
そして参観日の朝。長女は5時すぎに起きてきて「あれはなんだー!?」ととびきり明るい星を発見しました。たぶんあれは明けの明星で、夜明けにみえる明るい星だからそういう名前なんだよ、綺麗だね、明るいね、近くにあるから明るいんだよ、空は真っ暗だね、などと話しながら、一緒に眺めました。
ついでに「こういうのも俳句になるかもね」と誘うと、のってきました。その朝は、決して先に進まないように、慎重に慎重に、彼女がことばをみつけていくのを、ほんのすこしだけ手助けしました。
「はやおきは あけのみょうじょう みれるんだ」
彼女のつくった俳句は、わたしが頭の中で想定したのとは違うものでした。書ける字は彼女が書き、書けない字はわたしが書きました。
「できた!」長女は、それはもう、喜びました。「こうやって一緒に登ったらいいんだな」わたしは一緒に階段を登れたことが本当に嬉しかったです。
それからは、まず明けの明星を探すのが朝の日課です。夜明け前の東の空を眺めながら、園長先生のお話と、親子ふたりで自信をつけた朝のことを思い返します。そして「おやまのようちえんに行けてよかったな」とまた思うのでした。