昨日の保育日誌(年長クラス)に心に残るエピソードが記されていました。
「今日はお外遊びの時に男の子たちが死んだトカゲを持ってみていました。昨日、猫に食べられて、それを草のところに隠していたのですが、それではかわいそうだということで、どうするかを相談していました。
話し合った結果、土の中に埋めようということになり、お砂場の近くの草がたくさん生えて、皆が踏まないところを選び、そこに埋めてあげました。
自分たちで納得して場所を決め、お墓を作ってあげる姿がとても嬉しかったです。また、そのお墓に手を合わせてあげたり、「お空に行ってね」とトカゲに話しかけている子どもたちの優しさも嬉しく思いました。
生き物の大切さを考えることができた一日でした。」
命の尊さとは、いくら口で教えても分かるのものではありません。
ある種、感覚的な理解がいると思っております。
「子供が生まれたら犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時、
自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。」
たしか、イギリスの諺だったと思います。
死は悲しみとして心に刻まれ、同時に命の尊さを知る機会になる。
個人的な意見かもしれませんが、そう考えております。
この「トカゲ」という話を読んでいると、形は違えど、命の尊さを知る
機会があった、そして知る事が出来たのではないか。そう感じます。
しかも、誰に言われるでもなく、自分たちで考えて。
瓜生文庫の本、かつこの「トカゲ」の話。
なるほど、前園長先生の考え方が深く根付き、それが今なお受け
継がれ、かつ新しい形で発展しているんだなぁ、と感じました。
悲しみや苦しさから逃げるのではなく、悲しみや苦しさを乗り越える
しなやかな優しさを持って欲しい、それが私の子供への願いです。
そんな願いをかなえられる所に通わせることができていることに、
深く感謝しております。
これからも今まで通りの素敵な幼稚園であり続けて下さい。
心に響くお言葉を頂戴し、感謝申し上げます。
生と死の関係同様、私たちは自分の(あるいは家族の)病を経験して初めて健康の意味を知ることができるようにも思います。
病も死も、進んで求めるべきものではありませんが、かといって、完全に回避しようとしてもがいても甲斐はなく、結局のところ、偶然訪れるそれらの機会に、私たちがどのように真摯に向き合うことができるのかが、いつも試されているように感じます。