日中は猛暑が続きますが、夜になると虫の声がするようになりました。
季節はゆっくりと、しかし確実に移り変わっています。
季節を動かす根っこの力も、夕方に太陽が沈み、朝に太陽が昇るのも、同じ何かの力によるのだと思います。
人が生まれ、歳月を重ねる中で大きく成長していくのも、同じ力によるのではないかと思います。
私は今の園長室のある家で生まれ育ったので(つまり京都の東の山の上で生まれ育ったので)、子どものころから西の山に沈む夕日を見ながらあれこれ考えるのが好きでした。正面に愛宕山が見え、夕日に照らされる姿はいつ見ても心を奪われます。
そういうときは、ただ時間を忘れて眺めていたい気持ちになります。
こうして一日をゆっくりと終わりに向かわせる力も、一方、わたしたちの体を成長させたうえ、ゆっくりと老いに向かわせる力も、根っこのどこかでつながっていると子どものころから考えていたのでした。
山を眺め、空を見上げて雲の動きを見ていると、そのような考えがどこかから浮かびます。
人間にとってよいことをもたらしてくれる「何か」も、その逆のことをもたらす「何か」も我々の側ではえり好みできません。
それはちょうど明日の天気を選べないのと同じです。
昔の中国の聖人は「天不仁」といいましたし、そういうものかと思います。
せいぜい人間の側でできることは、過去の出来事をふりかえりつつ、そこに今につながる「何かよいこと」の縦糸を見出し、そのかぼそくても確かな運命の絆にたいして、感謝をもってふりかえることくらいでしょうか。
そのようなことを思い浮かべながら一日を終えることができたら、明日の天気が雨でも晴れでも無事に来てくれたらありがたく、なおかつ自分も一日元気で過ごせたら言うことはなく、さらに少しは人の役に立つことができたと思えたら、それだけで申し分なくありがたいことだ思えます。
バタバタしているとなかなかそういう内省的な気持ちになれないのですが。