大仰なタイトルと思われたかも知れません。

国とはなにか?これはプラトンが『国家』でソクラテスに語らせたテーマです。

2千年前のローマの文人キケローも同じ問いを立て、「国家について」と題する対話編を残しました。

その中で最良の政治形態が何かの議論が行われました。

ヨーロッパの思想全般、就中、民主主義について考察する上で必読書です。

結論はあっけないものです。

「国家とは国民のものである(Est res publica res populi.)」。(>>ラテン語の解説はこちら

全六巻ですが、その最終巻のみ「スキーピオーの夢」と呼ばれて今に至ります。

世のため人のために尽くした者の魂は死後天に召されるという思想を(おそらく)初めて明確に述べた箇所だと思いますが、手前みそながら、この「スキーピオーの夢」のラテン語全文の詳細な注釈を今から3年前に出版しました。

ラテン語を読む:キケロー「スキーピオーの夢」(ベレ出版)です。図書館が再開したらぜひ手に取って全文訳(分量はそう多くない)だけでも結構なので、読んでみて下さい。

その中で、「己の魂を最善の仕事のために捧げよ」という趣旨の言葉があり、私はその言葉にインスピレーションを得て、今の仕事に飛び込みました。

と、前置きが長くなりましたが、私なりにコロナ問題について論じている人たちの声に耳を傾けているのですが、次のリンク先の記事において、筆者は世界全体の今後について、極めて鋭い洞察を述べておられます。

>>コロナ後の世界(内田樹の研究室)

個人的な感想を述べれば、現代日本語によるキケローのような文章だと感じました(文体でなく中身が)。そして、特に注目に値するのは最終部分にある次の言葉。

「コロナ以後」の日本で民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが「大人」に、でき得るならば「紳士」にならなけらばならない。私はそう思います。」

教育の目的とはなにかの答えを読む思いがしました。

私なりにコロナ前とコロナ後の教育の力点の相違に言及します。

(前)勉強=競争
(後)勉強=貢献

昔からこのことは何度も言い続けてきましたが(=卒園式の式辞はこのことをいつも語ってきました)、(コロナ前)の時代において、「一般論ではわかるけれど、自分が関係すると椅子取りゲームから逃れられない」という本音があったと思われますが、(コロナ後)において、社会に、そして人類に貢献する方向で学ぶのが当然であり、己の私利私欲のために学びを位置づける(旧タイプ)の人間は居場所を失うと予想します。

関連記事: