『論語』の言葉に「君子は器(き)ならず」という言葉があります。

君子は立派な人という意味です。

立派な人とは人として目指すべき人間像というくらいにとらえてよいでしょう。

君子の反対に用いられる語は「小人(しょうじん)」です。これは油断すると(人間修養を怠ると)誰もが陥ってしまう人間像です。

誰もが努力次第で君子になれますが、油断することで小人のままでいることもありえます。

「君子は器ではない」とはどういうことか、ですが、「器」とは「道具」と言い換えてよいでしょう。

何の話をしているのか?と思われるでしょうが、じつに現代的なテーマを扱っています。

私は常々、教育は「人材」育成でなく「人間」を育てることを目標にする、と述べています。

そうです。今の言葉でいう「人材」のことを孔子は「器」と呼んでいるのだ、と理解すれば、じつに現代的なことを述べていることに気が付くでしょう。

なぜ「人材」ではだめなのでしょうか。

国は「かせげる大学を目指す」という方針を示しました。

かせぐのは産業界の目標であり、大学の目標ではないはずです。

大学の目標は人材育成では?という意見もあるでしょう。

大学を作った元祖プラトンの意見に耳を傾けましょう。

世界の多くの国の大学がそれをスクールモットーに掲げるように、大学の目標はずばり「真理」です(ラテン語でVERITAS)。

人材という表現は言い得て妙です。

戦争で勝利を目指すうえで、兵隊は「人材」であり、目標を達成するための「道具」です。

「人材」と呼ばれる立場の人がいるとしても、その人は「人材」である前に一人の「人間」であるはずです。

偶然ヨーロッパの古典にも「私は人間である」という有名な格言があります。ヒューマニズムの精神を一言で表す言葉として人口に膾炙しています。

孔子の『論語』も2千数百年の歳月を経て今も読まれるのは、そこに現代に通じる普遍的精神が随所に認められるからだと思います。

本園の教育も、豊かな感受性と勇気をもった「人間」を育てることを目標としています。

特定の技術の開花を急ぐのでなく、また、平均との乖離をあせり、特定の技術の不足を補うことに汲汲とするのでなく、一人一人がかけがえのない、豊かな人間として人生を謳歌できる基礎づくり、土台作りの経験を日々重ねる場を提供してまいりたいと願っております。

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