私は自著の中でも、ブログの中でもしばしば絵本の大切さを語っています。
「絵本」と聞くと「読まないといけない」とか「忙しくて読めていない」と思う人がいるかもしれません。
絵本の読み聞かせの前に、顔を見ての語らい(会話)がすべての中心にあると思います。
「語る」と聞くと「何を語ればよいのだろう」と思う人がいるかもしれません。
命令口調でなければ何でもよいでしょう。
「語らい」ということは、聞き役でもOKだということであり、むしろその方が自然に長続きするでしょう。
「幼稚園のことを何も語ってくれなくて」という言葉を保護者からよく聞きます。
子どもは千差万別で、一概にはなにもいえないのですが、充実して時を過ごしていればこそ、自分が何をしたかを取り立てて話す理由はないのだと思います。
お話し好きの子どもは無理せず聞き役に徹すればよいでしょう。
送迎の道中の子どもたち一人ひとりの顔を思い浮かべて、以上のようなことを書いています。
必ずしも言葉を交わさなくてもよいのです。
子どもが何を大切に思っているか、子どもが集中して取り組む目線の先に何があるか、大人がそれを意識し、子どもの心の中を想像することを日々心掛けるならば。
これはいわば、「無言の対話」に当たります。
「無言の対話」というと思い出す言葉が二つあります。
画家のゴーギャン(1848-1903) は、「見るためには目をつむる」(I shut my eyes in order to see.)という言葉を残しました。
描く対象をよく見るには、心の目で見なければならない――すなわち「想像力」(imagination)を生き生きと発揮させねばならない――という逆説です。
二つ目は詩人キーツの言葉です。
キーツは「心の耳で聞く調べの美しさ」にふれて次のように歌っています。
Heard melodies are sweet, but those unheard Are sweeter. 耳に聞こえる調べは美しい。 だが、耳に聞こえない調べはもっと美しい。
たとえば子どもの寝顔を見て、どんな夢を見ているのだろう、と夫婦で語り合うとしたら、その時間もまた「耳に聞こえない美しい調べ」を耳にしている時間であると思われます。
このような「心の対話」ができたうえで、絵本ははじめて意味を持つのと私は思います。