以前「山びこ通信」に寄せたエッセイ「何かよいこと」から一部をご紹介します。
「何かよいこと」
「これをするとあれに効く」と言うと健康の話題のようですが、教育の世界でも同じ宣伝文句をよく見聞きします。ここで思い出したいのが日本の昔話です。たとえば「こぶとりじいさん」。おじいさんは踊りが好きでした。「花さかじいさん」の主人公は飼い犬のシロを愛していました。その「結果」、こぶがとれたり、お殿様の面前で枯れ木に花を咲かせたりすることができました。
一方の「よくばりじいさん」はどうだったでしょうか。何かが好きだというのではなく、ただ自分のこぶをなんとかしたい、自分も花を咲かせたい。隣のおじいさんの「成功物語」を見聞きし、その真似を繰り返して失敗するのです。
人として正直に生き、自分の好きなものを大切にすれば、きっと「何かよいこと」につながっている。昔話の示唆するのはこのことです。
ただ、この「好きだ」とか「楽しい」という感覚。これは言葉で教え込むものではありません。子ども時代にどれだけ「遊び」に創意工夫を凝らしたかがポイントになると思われます。
大人の目から見ると、子どもの遊びは、いったい何の役に立つのか? と思えるものばかりかもしれませんが、ただ目を輝かせて夢中になって遊んでいる、そんな取り組みの一つ一つは、きっと「何かよいこと」につながっているのでしょう。
では、その「何か」とは「何」なのか? 大人はそれを知りたがります。でも私はいつも思うのです、それは神のみぞ知るものだ、と。それが「あれ」だとか「これ」だとか、したり顔で言うことは誰にもできません。
子ども自身が自分の人生を力一杯正直に生き、いつかどこかで振り返ったとき、「あれ」が「これ」につながったのだな、と合点することが許されるのみ。そうした「振り返り」のできる大人に見守られる子どもたちは幸福です。また、そんな子どもたちと時を過ごすことのできる大人も幸せです。
「初心忘るべからず」という言葉があります。子ども時代の心は、人生の「初心」に違いありません。人は、子どもの頃に耳にした(当時の)大人の言葉を思い出すとき、何が本当の言葉で、何が実はそうではなかったのか、今なら、この判断を責任を持って行うことできるでしょう。
であれば、今自分は目の前の子どもたちに、どんな言葉を選び、何を選ばないか。自問自答すれば、答えは誰の心にも明らかなはずです。幼稚園は、こうした人生の「初心」を忘れない大人たちが、日々子どもたちの「初心」を守り育てる教育の実践場であります。
<補記>
上で書いていることはスティーブ・ジョブズのConnecting the dotsと関係しています。「塞翁が馬」の話にも通じます。人間にとって未来は誰の目にも見えない未確定の領域だという認識のもと「今を生きよ」と助言をギリシャ・ローマ時代の古典作品は繰り返し述べています。日本の古典に目を向けても『徒然草』の吉田兼好は同じ趣旨のことを述べています。