昨日の抜き書きの続きです。
岡:文章を書くことなしには、思索を進めることはできません。書くから自分にもわかる。自分にさえわかればよいということで書きますが、やはり文章を書いているわけです。言葉で言いあらわすことなしには、人は長く思索できないのではないかと思います。
(小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』)
直感や感性の大切さを認めた上でこのようなことを述べておられます。
子どもたちがカプラを積み上げて作品を作り出すように、大人である我々は言葉を組み立てて思索を形にしていきます。対談相手の小林秀雄氏がのたうちまわりながら文章を書いた話は有名です。
小学校以上の教育ではその訓練に重点を置く必要があるのですが、現実は自分で作品を作ったり壊したりする経験を積むことなく、他人の作品を眺めたり、その解説を聞く時間が大半ではないかと危惧します(私の場合はそうでした)。
子どもたち同士で問題を解決させる新しい学習スタイルも議論されますが、ものを学ぶ初期の段階は「型」を身につけることが大事です。
「型」とは古典である、と上の対談者は語り会います。
型を徹底して学ぶことで(上のお二人は「素読教育」の重要性を語ります)己の創造の芽が養われます。
幼稚園で実践している「俳句」の素読と子どもたちの自由な作品創造との関係を思い浮かべてもよいでしょう。
俳句という「型」を教えることがなければ、何人集まっても一つも作品は生まれないと思います。