一昨日からの続きです。
小林秀雄氏は「素読」の大事さを以下のように述べています。
「情緒」が岡氏のキーワードであるのに対し、小林氏の場合は「すがた」が鍵を握ります。
書いた文章が難解で知られる小林氏ですが、ここで言わんとされていることは明快で、私なりに要約するなら、本園の俳句の取り組みにエールを送っていただいている、ということかと^^
小林:
素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかもしれないが、私はここに今の教育法が一番忘れている真実があると思っているのです。『論語』はまずなにを措いても、万葉の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としての方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。
(小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』)