「当たり前は当たり前ではない」
このことを私たち大人は経験として知っています。しかし、その値打ちを実感として理解しないとき、人は「当たり前」を無価値なものと思い込みます。
ニュース等でお聞き及びと思いますが、現在「幼保一体化」の法案が国会に提出されようとしています。一言で言えば、日本中の「幼稚園」(=幼児教育)はもう必要ない、と宣言するに等しい法案です。
日本の未来を築くには「こういう別の形の『教育』が必要だから」と判断されての改革案なら、私も正面から議論したいと思う力もわきますし、その結果、「なるほど」と思えるよいアイデアならば、潔く「幼稚園」の看板もおろしましょう。
しかし、実際はどうか。「待機児童の解消」がその狙いとされています。それは「教育」の本質とどこでどう関係するのでしょう?
つまり、今検討されている法案の狙いは「子どもたちのよりよい未来」を願ってのものではけっしてありません。「大人の(政治家の?)都合」だけを考えている法案です(待機児童の解消を図る努力を否定しているのではなく、私は幼稚園に関わる人間として、その仕事の本来の意味、使命を問うています)。
本園保護者には、入園説明会の時点から繰り返し述べているとおり、幼稚園の使命は「子育ち支援」にあります(ことさらに言うまでもない「当たり前」な事実であり、それゆえ、声高に言う人が少なく、また、「子育て支援」同様、日本語として不自然です。私も喜んで使いたい言葉ではなく、論点を明確にするため意図的に用いているに過ぎません)。
ご承知のとおり、本園は世間で言う「子育て支援」を積極的には実施していません(全国的にも少数派のようです)。それはどうしてか?
「餅は餅屋」という言葉があります。自分のできること、やるべきことを自覚し、精一杯専念するのが何より大事だと考えます。
とくに、本園の規模やマンパワーに照らすと、「子育て支援」の割合を増やす結果(=そのほうがいかに園児数を確保するのに有効であろうと)、本来の「子育ち支援」(=本来の幼児教育)の質に影響が出ては大変です(「できる」園が多数あることは言うまでもありません。それぞれの園が「やる・やらない」を(お上から命じられるのではなく)「独自に」判断し、決定することが大事なのだと信じます)。
いずれにしましても、世に言う「子育て支援」とは、本来は、保育園の使命であります。
「子育て支援」と「子育ち支援」と。
これら2つの「支援」は、元来補いあうものであり、対立するものではありません。だからと言って、両者を一つにすることは許されるでしょうか?
幼稚園と保育園はそれぞれに長い歴史を有し、相補いあう形でこれまでそれぞれの社会的使命を果たして来ました。
それぞれの「違い」(言い換えれば社会的使命)を知らない人は想像以上に多いように感じます(とりわけ、政治家の先生方^^)。これを機に、子どもの真の幸福とはどういうものか、それを守るために大人は何ができるのか(=幼稚園、保育園は何をしてきたか?)、再認識するきっかけとなればと願っています。