自然は毎日新しいと思います。
と同時に四季があり、繰り返し・反復性もあります。
子どもたちは季節の変化に敏感です。
あるとき、目に鮮やかな紅葉を見て、思わず年長の子が「懐かしい」と言ったのには驚かされました。
今は夏の終わりであると同時に、秋の始まりなのだと思います。
昼間はセミが大きな声で鳴き、夜になると虫の音が聞こえます。
山の上は人の往来がなく、文字通り風の音が聞こえます。
古今和歌集の次の歌を思い出します。
秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行
「ふと感じた風の音」に秋の到来を感じる、というわけです。
昨日と同じく、今日も星野道夫さんの言葉を引用します。
無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、何と粋な計らいをするのだろうと思う。一年に一度、名残惜しく過ぎゆくものに、この世で何度めぐり会えるのか。その回数を数えるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれない。(星野道夫)
子どもたちにとって、冬の降雪は一大イベントです。
しかし、自然は年に数回のイベントをつかさどるだけの存在ではありません。
「目にはさやかに見えねども」毎日「風の音を聞かせ」季節の移ろいを告げています。そして、繰り返しますが、子どもたちはその変化を鋭敏にとらえています。
子どもたちは、(そして子どもごころを忘れない大人は)、何も考えずに、自然の中にたたずめばそれでよいのです。
自然は、平凡に見える日常の中に、同じ歩みで循環を続ける季節の鼓動を必ず聞かせてくれるからです。
昨日、子どもたちと球根を植えました。いただいた球根は大量で鉢が足りなくなり、ある鉢の植物を地植えにしようと鉢をひっくり返しました。
この植物は、昨年の秋、お山の遠足で掘ってきたお芋の兄弟です。遠足の日、いっぱい掘るね!と意気揚々と出発し、ですが、大漁とはいかず、、ちょっとしょんぼり帰ってきました。ベランダにお芋を並べながら、最後に「お芋の葉っぱきれいだったから、見せようと思って」と茎つきの葉っぱを渡してくれました。葉っぱはしおれていたけれど、その気持ちがうれしくて、水に浮かべて飾っていました。2、3日するとしおれた葉っぱのそばにかわいい新芽が出て、それからは窓辺の花瓶で、気づけば冬をこしました。春には茎から根がはってきたので、またなんとなくビオラを植えてた植木鉢にお邪魔させました。ビオラはよく咲き、そのそばで暢気そうにしているお芋の葉っぱ。ビオラの季節は過ぎて、いつの間にかお芋だけに。。
そして昨日、相変わらず暢気そうなお芋の葉っぱを地植えしようと、子どもたちと鉢をひっくり返してびっくり!植木鉢の中にルビー色の美しいお芋が!大人の拳くらいあります!遠足の日の1枚の葉っぱが大きなお芋に成長しています!なにも特別なことはせず(期待もせず)、時間と太陽の光と土と水だけで、こんなに美しいお芋になっていました。
いきものはすごいね!と息子。ほんとにそうだなぁ、と感心しました。そして、お芋掘り遠足を改めて懐かしく思い出し、とても幸せな気持ちになりました。ありがとうございました。
追記:保護者の声に投稿しようと思いましたが、たどり着けなくてこちらにコメントさせていただきました。すみません。
山下です。貴重なエピソードをお伝えくださり、たいへんありがとうございました。子どもたちの目は大人以上に自然との触れ合いのチャンスに鋭敏で、こちらが教わることが毎日多々あります。
追伸
コメントをずいぶん以前にいただきながらお返事が今になり申し訳ありませんでした。ブログ右上に表示されたお名前はてっきり以前にご投稿なさったものと勘違いしていて見逃しておりました。