卒園式は人生の大事な区切り目ですが、そこですべてが完結するのではなく、ゆるやかな形で新しい小学校生活が始まります。

ゆるやかな形というのは、これまでにも、ゆっくり着実に、この新しい「始まり」への準備は進められていたことを意味します。

新しい始まりの部分は、たとえば文字を使った学習もその一つです。

急に文字の勉強が始まるのではなく、今までにも子どもたちは文字を目にする機会がふんだんにありました。意味はすぐにわからなくても、文字への興味は徐々に高まってきたと思います。

文字を読み、理解し、文字で考えを相手に伝えること。これは今迄の準備を土台にしてこれからいよいよ始まることではあります。こうして大人に向けての一歩一歩が始まります。

他方、別の意味での「ゆるやかさ」が求められるように思います。

すなわち、幼稚園時代の「名残り」の一切に対して、小学校入学とともに「決別」するのがよいやりかたでも、よいイメージのもちかたでもないと思われます。

作家のミヒャエル・エンデは、「幼さと幼稚さとを区別しなければなりません。人間の中の幼さは、感動でき、自発的で、経験に開かれた、もっと進化する能力です。人間はこの幼さを本来決して「克服」すべきではありません」と述べ、それに対して「幼稚さ」は克服すべもの、とみなします。

司馬遼太郎も、子どもの「三つ子の魂」を尊ぶ一方、「幼稚さ」(人前でほたえる、等)を否定すべきものとみなします。

この点、私も同感です。

幼児教育は、エンデの言う「幼さ」を守り、「幼稚さ」の克服を応援するものと言えるでしょう。

だとすれば、四月からの学校教育の始まりに際して、文字を用いた学習の始まりに備えると同時に、「幼稚さ」の克服と「幼さ」の見守り、といった幼稚園時代の課題は引き続き継承される必要があるといえます。

そのような意味で、100対0のように、幼稚園時代と小学校時代の関係を分断してとらえるのではなく、幼稚園時代の課題50と小学校時代の課題50の混ぜ合わさったものがこれから始まる、というゆるやかなとらえかたでよい、と思う次第です。

関連記事: