日本でいまなにかと話題の「ゆとりの教育」について、本家としてイタリアの小学校なんかは参考になるのではないかと。このエントリを読むと、教科書は数科目を1冊にまとめた簡単なもので、学校は午前中で終わるとのこと。

1つは、大学入試が日本とイタリアでは天と地ほど違うから公教育はこのような形で可能なのですね。「ゆとり」といいながら、マークシートの大学入試に60万人が殺到する(センター試験)という現実がかわらないかぎり、進学塾・予備校で「知識を補う」という形になります。これは、文部省がどこをどういじっても、国民の大学に対する意識、期待がそうさせているので、それが、国によって大きく違ってくるわけです。

教育の力点もまるで違います。空所に入る言葉を「選ぶだけ」というのが日本の歴史のテストであるのに対し、あちらの試験は自分で歴史上の特定のテーマについて、先生の前で授業をしないといけません(教育実習のようなもの)。大学での試験も同じく、何も見ずに教授のように講義ができるかどうか。フランスの大学入試は、もっと多くの数が受験するので、論述形式になるのでしょう。哲学の試験は数時間かけてエッセイをかかないといけません。

教育の内容に関しては、機械でも採点できるか、できないか?ここに大きな違いがあると思います。

機械で採点できることを教える喜び、学ぶ喜びはたしかにあります。問題があるとすれば、それで日本の場合、ほとんどの場合大学に入れるという点です。しかし、大学とは本来、機械で採点できないことを追求するところであり、学生にとっては大学入学と共に、今までよいとされた勉強の仕方で「歯が立たない」という「悲劇」が待っているのではないでしょうか。「悲劇」と括弧付きで書いたのは、実際にはそうではなく、日本の場合、授業に出ていたら単位はもらえる、という暗黙の了解はないでしょうか?

じっさい、「大学は学問をするところだ!」という意識を、大学の先生自身、授業を通してどれだけ強くもてるのでしょうか。さまざまな「改革」で多忙を極める中、また学問への情熱はさておき、機械的な勉強のみを強いられて「今ここにいる」という多数の学生たちを前にして、双方のの「前提」が大きく異なっている「矛盾」(学問への情熱がなければ入学は許可しなければよいのに・・・)と毎回つきあわないといけない「悲劇」はむしろ先生の側にこそあると言えるかも知れません。

といって、先生の中にも、「学問への情熱」がどれだけあるのか?疑問な場合もありえるので、どっちもどっちという事例は事欠かないでしょう。

また一方、純粋に知識と情熱の双方を満たした学生を、大学が責任を持って選ぶことができたとしても、そんな大学は経営的に成り立たないのではないか、という危惧があるのでしょう。本当は、この責任をこそ、大学には取って入学試験をして頂きたいし、試験(とくに卒業試験)は厳格をきわめていただきたいと思います。そして、この意識をすべての教員が共有し、大学の4年間は、人生で一番勉強したと言える学生を育てて頂きたい、と思います。

実質的な内容を伴わない過剰な期待や評価は、経済がそうであったように、いつか泡のようにはじけてしまうような気がします。今はバブル経済ならぬバブル教育である、と思います。

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