私は英才教育賛成です。ただ、英才教育の定義が世間のそれとは異なるかもしれません。
本物の英才教育は最低でも10年先に「よかった」と実感できるものであり、その成果は人格形成の根幹をなすものでなければなりません。短期で成果のあがるものは得てしてそれとは無関係です。
この教育は「反復」を伴いますが、それは子供にとっては苦痛ではなく、むしろ快いものであるべきです。無理なく長期間続けられるもの、長い目で見て、その子の人格形成に有益であると信じられるもの。
本園は「歩く」ことを大事に考えています。これを英才教育だと言うと、多方面からご批判を受けるでしょうし、私自身、そのように申し上げるつもりもありません。
しかし、英才教育の定義を上のように見直すとき、すなわち、促成栽培のようにすぐに芽が出て咲く花を育てるのではなく、文字通り「大器晩成」につながる教育と定義しなおすとき、たとえば「歩く」ひとつをとってみても、これは立派な教育であると再認識しなければならないのではないか、と感じています。
といいますのも、今のお子さんは本当に「歩かない」からです。その弊害がどこでどういう形で現れるのか、私は専門的なことは申し上げられません。おそらくデータで実証できる弊害は本当の弊害ではない気がします(裏を返すと、歩くメリットをデータで裏付けても、それは常に不十分でしょう)。
「歩くことは当たり前」というのは歩いて育った大人の常識です。しかし、遠い?将来、「今日は歩く練習をしましょう」というカリキュラムが幼稚園や保育園に取り入れられる日がこないとも限りません。
先日、本園では鉄棒の取り組みをしました。私たちはたしかに歩いて汗を流しています。しかし、園内でどれだけ「体を動かして遊べているか?」という問い(課題)を私は常に持ち続けています。現状で満足しているわけではありません。子どもたちに「今」一番学んでほしいこと。その答えのひとつが、この鉄棒の取り組みです。
興味深いことに、年少児、年中児、年長児・・・と学年ごとに取り組んだのですが、学年があがるごとに、「自分にはできない」と言う子どもが増えることです。年少児は、全員逆上がりに挑戦し、たった20分の練習の中であれよあれよという間に逆上がりができるようになっていきます。先入観がないためです。年長になると、「できない」としりごみをする子が多く見られます。
クラスで普通に鉄棒の取り組みをすると、できる子、自信のある子だけが何度も繰り返し取り組み、できない子、自信のない子は「お先にどうぞ。自分はやらない」となっていきます。私が目をつけるのはこの点です。だからこそ、クラス全体で鉄棒に積極的に取り組む価値があるのだ、と。先日の練習を見ていると、できる子も、できない子も、全員が等しく「挑戦する気概を持つこと」、「互いの努力を尊重すること」を学ぶことができました。この意義は想像以上に大きいものがありました(本当は、この手の取り組みは日々実践しないとその真価を発揮しません。かりにその日不完全燃焼で終わった子がいれば次の日にチャンスがめぐるように配慮すべきだからです)。
当日指導してくださった居関さんは、子供たちに向かっておっしゃいました、「自分を信じてくれるか?」と。「できひーん」、「むりー」と言う声が出たときのことです。「できひんからやるんや(笑)」と軽妙にかわしつつ、「鉄棒は苦手だけど今日はがんばってみる!という人手を挙げて」と問いかけます。その日、その日の主役がいるというわけです。瞬時に「その日の主役」を抜擢し、前に出てきてもらいます。そして、挑戦。できる子も、できない子もその子の取り組みに注目します。絶妙のアシストを受けて、見事に回ることができました。そうしてできた子に、「こわいか?(笑)」と居関さんがたずねると、「こわくなーい」とうれしそうに言葉が返り、張り詰めていたその場の空気が一瞬にして和みます。続いて「ぼくもやりたい」、「わたしも!」・・・。
確かに、指導技術と言うものがある、と思いました。私自身は、自分の俳句指導と重なるところが大いにあると思ってみていました。居関さんは言われました、「できない子、しり込みをする子に無理強いさせては嫌いにするだけです。一年365日あります。いつかはできると大きく構えることが大切で、チャンスはいつでも訪れます」と。これは私が俳句指導で心がけていることと同じです。
教育の現場に立つ者は、その子の人生にとって一番大切なものは何か?常に考える必要があります。優しい心、思いやりをもつ心の大切さは言うまでもありません。一人ひとりの心に寄り添うことは大切に違いありません。その土台に立ち、なおその子の10年、20年先の人生のために大切なものを今磨くことができるとするなら、それは何なのか。
私は「自分を信じ、ものごとに挑戦する気概」こそ、幼少期の集団生活の中で今養うべき大切な素質であろうと思っています。