遺稿集の編集を進めています。
その中のひとつに、表題の一文があります。子は親を選べない、そこに運命的な出会いがある、という認識から、このかけがえのない出会いを大切にすることで開かれる親子関係の豊かな可能性に言及されています。
夫婦の結びつきにおいては、成功例もあれば失敗例もあります。いずれにしましても、お互い慎重に吟味をかさねて、あくまでも納得の上で結婚したのですから、たといそれが失敗に終わったとしても、誰にも文句はいえません。
選択の機会を与えられずに、強引に結婚させられたのなら兎も角、相手を見る目のなかったことや、結婚後の努力の足りなかったことなど、お互いの至らなさを反省するより仕方ありません。
一方、親と子の結びつきはどうでしょう。
あの夫婦のところは、いつもいがみ合っているから、あそこの子どもになるのはいやだ。
こちらの夫婦は優しそうだし、生活も安定しているようだから、こちらの子にして貰おう。
もしもそんな選択ができるとしたら、それはもはやアニメの世界でありまして、現実には、子どもには親を選べません。
しかも子どもにとってはだれを親に持つかによって、それから後の育てられ方や、教育の受け方も違ってくるわけです。親はどんな人柄なのか。兄弟はいるのか、いないのか。そのほか、さまざまな条件の一つ一つが、子どもの人生を決定づける大きな要因となるのです。
夫婦はいちど離婚しましても、また他に伴侶を求めることができます。親子はいちど決まったら、死ぬまで血のつながった親子です。夫婦の縁は、切ればまったくの赤の他人ですが、親子の縁を切ることはできても、血の流れだけは、切ることも消すこともできません。
考えて見ますと、この広い宇宙には、実に何十億とも知れぬ多くの星が瞬いております。歴史の流れは何億年、過去から未来永劫にわたって、連綿と続いております。その無数の星々の中から、父星、母星、子星と、タッタ3ケ出会った親子星。
何億年と続く歴史の流れのわずか一瞬のはざまに出くわした三人の旅人。この神秘な出会いこそ、人間の力ではどうすることもできない、よくよくのご縁であり、まさに神の配在そのものであります。
この親と子の出会いの不思議さ、ありがたさを厳粛に受け止める、ここから子育てのすべてが出発しなければならないと思います。
タレントの中村メイ子さんが、以前、NHKテレビのある番組で、
「私がとても感銘を受けた、3才の子どもの詩をご紹介したいと思います」
と前置きして紹介された詩は、こういうのでした。
“お母さん! お母さん!
ぼく どうして生まれてきたか 知ってる?お母さんと 会いたいからだよ”
詩といっても、”3才の子どものつぶやき”を、お母さんが書きとめた、それが何かの機会にメイ子さんの目に止まり、母親にたいする幼な児の心情を、彼女は詩として捉えたのでありましょう。この3才の子が、
「お母さんと会いたいから」
といった、そのつぶやきの裏には、母親の方にも、
「この子を産んでよかった。この子と出会ってよかった」
との感謝の気持ちと幸福感で満たされていたに違いありません。
ここに、現代失われつつある、親として思いを新たにしなければならない、子育ての原点があるように思われます。
神によって導かれてきた無垢な子ども達は、生まれながらにして、
「お母さんに会いたくて、生まれてきたんだよ」
の思いを、どの子もみな持っていたに違いありません。母親もまた、同じ思いであったことでしょう。それが、いつの間にか歯車が狂ってしまって、世の中、問題の子ども、問題の親で充満するというのは、どういうことでしょう。
運命的な、神聖な、親と子の出会いの不思議さに思いを深くするならば、昨今見られる、子どもが親を殺める、親が子どもを死に至らしめるまで虐待する、などといった神への冒涜行為は起こらないのではないでしょうか。