昨日は一人一人の園児に、クラスの担任から努力賞が手渡されました。賞状には、担任からの言葉のメッセージ(園児を思い浮かべ、一年間どのような努力をし、成長したのか、それについての称賛の言葉)が書かれています。
当然、全学年を通じ、同じ表現は二つとありません。それを以前は私が読み上げ、子どもたちに賞状を手渡していました。去年から、先生に賞状の受け渡しをお願いしています。
やはり、先生には、自分で書いた言葉を自分の言葉で子どもに伝えてほしいと考えたためです。また、クラスの子どもたちには、その式がいかに厳粛な場であるかを理解させ、他のお友だちがどのような言葉でたたえられているのかをしっかりと聞くように、そのような「あらたまった」場を作っていただきたい、と先生たちにはお願いし、今に至っております。
昨日はどのような様子であったかと申しますと、どのクラスも「厳粛に」「努力賞授与式」が行われました。皆の前に出て賞状をいただく、大人の目にはそれだけのことのようですが、この「厳粛さ」に緊張し、クラスによっては涙が出る子もいました(涙は出ないまでも、それに相当する反応はいろいろありました)。
ただ、この「涙」を見た時、または、恥ずかしくて前に出られないお子さんを目にした時、他の子どもたちは「がんばれー」の声援を送った、というのが各クラスに共通したリアクションでした。
「あらたまる」ということ、これは現代の生活ではその機会が少なくなってきているようです。年長だと「俳句」の時間がそれに当たります。生活発表会を開催する狙いの一つもここにあります。大人なら誰もが経験として理解できること、それは、努力する気持ちや前向きに取り組む気持ちの裏付けがなければ、この種の「緊張」は生じない、ということです(オリンピック選手の緊張も、誰よりも真摯に努力したからこそ生じます)。
安易にスイッチを押せば得られる娯楽でもなく、お金を出して手に入るものでもなく、努力を継続して手に入れた結果は、どのようなものであれ尊いものです。
担任が一年間クラス作りに取り組んだ結果の一つが、この努力賞授与式の持ち方に反映しています。クラス全体が一年間でどれだけ「あらたまった」時間を共有できたのか、この日の取り組みに投影されていると私は先生たちに伝えました。言い換えれば、この日の式の一部始終は、担任にとっての「努力賞」の中身にほかならない、ということであります。