今日で夏休みも終わりです。
連日ふりかえった過去のエッセイを読み返し、自分の考えの傾向が客観的につかめました。
新しい知見も加え、また保護者会でお話ししたり、園長だよりに書いたりします。
幼稚園までは楽しくても、小学校からはそうではないという声を聞くことがあります。
勉強は何かという根本の問題について、ボタンの掛け違いがあるようです。
勉強は義務だととらえるか、勉強を遊びの延長ととらえるかの違いは大きいです。
このようにいうと、遊びという日本語が邪魔をします。
つまり、ふざけたような、ややネガティブな意味合いで受け取られるおそれがあります。
じつは、欧米の言語のねっこをふりかえると、学校は遊びです(ラテン語のlūdusは遊びと言ういみですが、同時に学校を意味しました)。
また、スクールの語源は(古典)ギリシア語で「暇」の意味です。
さらに、学生や生徒を意味する studentは「一心不乱に取り組む人」のことであり、遊びに没入する幼児を表現してもよい言葉です。
そして、「勉強」とはなにか。英語のスタディの語源は「熱意、情熱、やる気」です。
幼稚園の子どもたちは、studyに満ち溢れています。
なにがどうなってボタンの掛け違いが起きるのか。私は大学も含めた学校制度そのものが日本人の発明ではないことに注意したいです。
なにのためにそもそも学校は存在するのでしょうか。学ぶとは仕事なのでしょうか。
そのような根本的なことを学校関係者も含めて今こそ問う時ではないかと思います。
かりに世の中が問わなくても、私は問い続けます。
大学での最終講義(西洋文化論だったと思います)では、「勉強とは何か」について話しました。
長いですが、興味のある方はどうぞご一読ください。ただしかなり長いです。
>>「勉強とは何か」