9月は入園説明会、保護者会、ふれサタ(敬老参観)、ふれサタ秋祭り(カプラ)、運動会(あと1ヶ月!)などなど、各種行事で盛りだくさんですが、園としては準備を急ぐことで(あるいは気を取られることで)大事なものを見失わないよう気をつけていきたいと思っています。

大事なもの・・・。

本園では子どもたちの思い出づくりを何より大切に考えていますが、運動会その他の行事はその意味で重要であることに間違いはありません。ただし、行事の成功という大義の前に、どうしても子どもたち全体をひとくくりにしてある一定方向に誘導せざるを得ない、そんな時間帯が増えるため、行事にさほど乗り気でない子どもたちが窮屈な思いをする可能性があります(子どもの思いは千差万別)。

逆に、いっさいの行事をなくし、子どもたちにすべての行動を自由に選択させるなら、それは教育の本質から目を背けた「逃げ」でしかない場合がありえます。幼児教育は、単に子どもを安全に預かればそれでよいというものではありません。小学校以上の学校教育に対する大事な準備期間であります。

それが「お受験指導」という極端な形で行われるにせよ、本園のように「今しかできない大切な経験」を子どもたちがクラスの中で、あるいは歩いての通園グループの中で共有する形で導かれるにせよ、幼児教育は、常にある一定方向(「理想」と呼ぶべきもの)への導きというベクトル抜きには実現しないものです。

いずれにしましても、個々のお子さんの様々な思いの実現を支援する立場と、集団の中で己の力を精一杯発揮する経験を支援する立場の両者のバランスを絶妙にとりながら、子どもたちの心身の健やかな発達を実現することこそ、本園が何より大切にしたい教育の要諦にほかなりません。けっして答えがあるわけでなく、子どもたちとのふれあいを通し、日々新たに勉強させてもらっているというのが実際のところではありますが・・・。

このように特別な「答えはない」というと、頼りない思いをする方がいらっしゃるかもしれません。しかし、こと教育に関し、「答えはこれだ!」としたり顔で語られるメソッドに何か特別な力が宿っているとは思えたケースは残念ながらありません(私の経験不足、勉強不足かもしれませんが)。私は、人を育てるのはメソッドではなく、人間の愛に他ならないと信じるからです(特定の宗教の名付ける「愛」というのではなく、相手の身になってモノを見る態度と意訳してもよい)。

そして人間とは(保育者も保護者も)常に迷い、悩み、その結果、勇気を持って立ち上がることのできる存在でもあります。メソッドへの信頼(依存?)がそれを可能にするのではありません。

自らを省みれば、そして保護者の立場を察すれば、すべては子どもたちのためにと思えばこそ、自己犠牲も辞さず、自己研鑽も怠らず、それゆえ子どもたちから力と勇気を受け取る謙虚な存在にもなれるのではないか(「自分に答えがある」とうぬぼれるのではなく・・・)、そのように子どもたちへの感謝をこめてふりかえることのできる(また、保護者の日々のご尽力に感謝申し上げたいと思う)この頃です。

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