20年前に書いた原稿シリーズです。
>>「比較」について
この考え方を膨らませたものをこのたび上梓した世界思想社の『お山の幼稚園で育つ』の一章で扱いました。
>> 第24章 「比べる」――比較とは見失うこと p.125
一言で言えば、比べようのない価値を比べてどうするのか、ということでもあります。
幼稚園が小学校以上の教育と決定的に異なるのは、相対評価をしない点にあります。
もしそれを行った場合、「百年の恋も一瞬で覚める」ことは自明です。
情報化時代、人間は人間の無限の可能性について無知であるにもかかわらず、偏差値がいくつだから何%の合格率だとか、きわめて無責任なことをもっともらしく並べ立て、若い魂の挑戦する心を見事に摘んでいきます。
もちろん、まったくのデタラメではないにせよ、私はこれまでの人生を振り返り、数字の話はすべて「話半分」と受け止めるのが吉、と信じています。
と同時に、「なにくそ」とか「やってやるぞ」という自分で自分を叱咤激励する強い心を幼少時代に培うことだと思います。
こういうと、幼稚園時代に「表面的に」大人しく、なんでも「お先にどうぞ」という態度を示すお子さんをお持ちの親は、「うちの子はそんな気概はない」と決めつけるケースが多く見られます。しかし、それはその子の本質を見ていないことを意味します。
大事な力は、表面的にアグレッシブかそうでないか、で測定されるものでは絶対にありません。逆に、アグレッシブに見えて、内心は臆病である、というケースもあるでしょう。
私が重視するのは、頑張るか、頑張らないか、その分かれ目で「よし、がんばろう」と自分で自分を鼓舞できるか、どうかであります。周囲にけしかけられて、他人との勝負に勝つぞ!と意気込む態度は長続きしないばかりか、そういう他者との競争では永遠に真の自信はつかないものです(「上には上がある」と感じてそこそこ何かに習熟してもすぐに諦めることはありえます)。
対象とすべきジャンル(スポーツでも音楽でも勉学でもなんでも)において、その対象をこよなく愛せるなら、他人との勝負の土俵に上がる必要はなくなります。親は一般にこの土俵での勝負の勝ち負けに一喜一憂しがちなので、本人はやる気をすぐに失うのです(親の期待に応えられない、といって)。
肝心なのは、親が土俵での勝負を、まるでTVでひいきのチームの勝敗に一喜一憂するような態度で応援することを最初からしないことなのです。つまり、最初に書いた、「比較」をやめる、と決意することです。
その子が何に夢中になっているのか。なにをしているときに時間を忘れているのか。それを親として注意して見守ればそれで十分です。合い言葉は、
Less is more.(少ないほど多い)。
この言葉はシンプルですが、言うはやすく行うはかたし、です。
どうしても、More is more となってしまいます。それでよい、と信じる人も多い世の中です。その結果、そのmore の部分が子どもたちには重荷となり、やる気を損なう方向で作用するのです。
私はそのように考えております。