教育にかかわることで思うところを述べます。

西洋古典の格言に「ゆっくり急げ」というのがあります。

漱石の古典語の先生であったケーベル博士がこの言葉を田中秀央(ひでなか)先生(日本の西洋古典学の開拓者)に贈ったことが知られます。

もとはギリシャ語の格言でしたが、古代ローマの皇帝アウグストゥスの座右の銘として知られます。

ひらたく訳せば、関西弁の「ぼちぼちいこか」と同じような意味だと私は受け止めています。

前置きが長くなりましたが、幼児教育も小学校からの教育も、「ゆっくり急げ」でいくのが大事だと思う次第です。

それは、「急げ、急げ」に対するアンチテーゼです。

「ゆっくり、ゆっくり」も少し違う、「急げ、急げ」も違う。

なぜこのようなことをかくかというと、今の教育は何もかもせっかちだと思う場面が多いからです。

種をまいて水をやれば次の日に花が咲くと思う子供を大人は笑えないでしょう。

時計を見て、今すべきことを計算すると「急げ、急げ」となります。

それは社会を生きる上で必要な常識です。

しかし、本当に大事なのはそうした計算ではなく、対象を愛し、いつくしむ気持である、と私は思います。

幼稚園の場合、このことは基本的に守られます。少なくとも、本園ではそれは守られます。

小学校の場合、学びが競争と過剰に結びつくとき、対象を愛し、いつくしむ気持ちは後回しになり、時間に追われがちになります。

学びに関して、「焦り」「不安」を抱かない小学生、中学生、高校生は少ないように思います。

そうならないために、何が大事かと考えた時に、ひとつは基礎を重んじる態度、そして「ぼちぼちいこか」の態度です。

基礎を重んじることについては、多くの大人、子どもが安易に考えているように見えます。

基礎は簡単なことでなく大切なことです。

本当に基礎が身に着けば、その知識を知らない人に教えられます。

揮発性の知識なら、教えられません。

古文の場合、「花咲かなむ」と「花咲きなむ」で意味がまるで異なります。

本当に大事なことをないがしろにし、点を取るテクニックだけ身に着けても(=試験に出る範囲を気にして「覚えては忘れ」を繰り返す)態度を身に着けても──対象を愛すとか、いつくしむ気持ちは年齢とともに「かすれていく」でしょう。

基本がわかると他人に教えられます。自分で自分にも教えられます。

「これがこうなる。だから、あれはああなるのだな。よし、調べてみよう」と。

楽しんで学ぶとはこういうことです。

原理原則を無視して暗記に頼ると、「これは?」「こうなる」(正解)、「じゃああれは?」「知りません」。

基礎をおろそかにしたまま勉強時間をいくら積み上げても、苦痛の連続となるでしょう。

手を変え品を変え、外からの刺激を繰り返さないと自分から何も学ばなくなります。

「手を変え品を変え」の部分で無駄なやりとりが生じ、時間は多く浪費されるでしょう。そして「焦る」ことになります。

大事なことは基本の習得であり、学びの基本的姿勢さえていねいに会得できたなら、あとは末広がりに知識も増えていくでしょう。

他との比較に「焦る」のではなく、学びを真に「楽しむ」道を歩むことができるはずです、「ぼちぼちいこか」と自ら自分に言い聞かせながら。

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