明日からいよいよ三学期がスタートします。
以前京都新聞に寄せたエッセイを掲載します。
子どもは模倣や真似が大好きです。模倣は尊敬の別名であり、子どもたちは何かに憧れ、何かを尊敬したくてたまりません。それは人間として本来備わっている「真・善・美」を追求する欲求に合致した自然なことだと思います。まずは憧れの気持ちから真似を繰り返すこと、その先に創造が生まれるということ、この順序が重要です。これは言葉による表現にせよ、絵画表現にせよ、原理は同じです。
「表現」は英語の expressionの訳語です。語源に即して言えば「力が加わった結果、何かが外に絞り出される」というニュアンスです。その反意語は impressionで、日本語では「印象」と訳されます。英語の綴りをよく見て下さい。ex (外に)と in (内に)が、各々逆の方向を示しています。pressionは、プレス(押す)と関係しています。
ミカンが目の前にあるとし、それを両手でぐいっと絞ります。これが「インプレッション」のイメージです。ある一定以上力を加え続けるとミカンの皮は破れ、果汁が外に向かってほとばしります。この「ほとばしり」が「エクスプレッション」であり、「表現」です。今述べたことは、真似から入り創造に至るプロセスと同じです。感動的な対象が心に「刻まれる」経験を重ねるとき、必ず魂のほとばしりと言うべき「表現」が生まれます。
私の園では週に二回、年長児に俳句の素読を行っています。正座をして向かい合い、私が初句を声に出せば子どもたちは耳で聞いた通り声を合わせて返します。二句も同様、結句も同様。こうして全員で芭蕉や蕪村の俳句を何度も声に出すうち、自然に暗唱できるようになります。それに加えて、誰からともなく俳句を作って持ってきます。これは上で述べた「ほとばしり」の第一歩と言えるでしょう。
素読のよいのは文字を使わない点にあります。聞いた言葉を繰り返すのは幼児にもできます。素読の本質は真似ることにあり、意味は教えません。一つの俳句について何十回と声に出すことで、子どもたちは自然に言葉のリズムや姿にふれ、心に豊かな風景を描きます。重要なのはお手本としての古典の存在であり、芭蕉や蕪村の作品は安心して子どもたちに紹介できます。子どもたちの感性は本物に敏感で、誇らしく朗唱を続ける姿は圧巻です。
「印象」と「表現」の関係で言えば、手本の言葉を何度も繰り返すことで、子どもたちは未来の「表現」の糧を蓄えていきます。それがいつどういう形で「魂のほとばしり」となって表れるか、それは将来のお楽しみです。子どもたちは元来誰もが感受性豊かであり、誰もが「真」なるものを模倣したいと目を輝かせています。その目を曇らせぬためにも、大人は子どもたちの「表現」に一喜一憂するよりも前に、彼らを取り巻く環境が、模倣に値する「手本」を含むかどうか、常に注意を払うべきだと言えるでしょう。