今日は1学期保護者会を開きました。

後半は教育についてのお話をしました。

テーマは多岐にわたりました。

終わってからある保護者から「(お話を聞いて)いろいろ反省しています」と言われましたが、今日のお話の趣旨は、まさにそのお言葉こそ尊いというものでした。

キャッチボールは言葉と心のやりとりの比喩として、また、実際のボールのやりとりの話として二度言及しました。

前者の比喩は私自身が考えたものですが、本当にNGなのはそういうことだと思います。

後者に関して、20年近く前に書いた園長だよりに新聞紙の「キャッチボール」の思い出についてふれました。

「クワガタのつどい」の話はIkuko Diaryの記事が写真豊富で詳しいです。

大縄跳びの話題について、このブログで書いています。

>>2015-05-29 がんばる子どもたち:挑戦することの意味

先生の回し方のせい云々の子は縄跳びに「人生」をかけていたのでしょう。彼は今中学2年生ですが中学受験もがんばったようで、去年の春、わざわざ遠方から合格の知らせを伝えに山の上まで登ってきたのでした。「これは」と思ったことに寝食を忘れて取り組むエネルギーの原点を培う場、それが幼稚園時代の「遊び」だと思います。

回数がすべてではないと言いつつも、必死で頑張る子どもも凄いし、それを応援する先生の熱意も凄いと思った瞬間がこちらの動画になります。1:30あたりにご注目。

バレー部誕生秘話について、先代園長のエッセイをご覧ください。

>>「十周年と五十周年」(真ん中あたりに「バレーボールチーム結成」という小項目があります。

「コンコルディア」について、
1)Ikuko Diaryで検索(記念樹の話題)
2)園長日記で検索(バレー部のロゴの話題)

最後に「ものづくり」について、以前書いたもの(「お山の幼稚園で育つ」)から引用します。

私の園では自由に工作する時間を設けています。めいめいが自分で作るものを決め、材料を選び、自分でイメージしたものを作っていきます。男の子は剣や手裏剣、女の子はかわいい小物やアクセサリーなど。子どもたちは、誰に命じられるのでもなく、自分で自分に「よし、やろう!」と言い聞かせて作業を始めます。顔つきこそあどけないですが、作業に没頭する姿勢は大人顔負けです。子どもたちは、ものづくりを通して、自由の精神を味わっているのです。工作では、アイデアを出す力、見通しの力が養われます。

幼稚園で作った作品は、家に持ち帰ってもらうこともあれば、教室で一定期間展示する場合もあります。ある子に、「よくできたね。家に持って帰る?」と聞くと、「幼稚園に置いておいて。(持って帰っても)捨てられるから」と言われたことがあります。できた作品をどのように扱うのかは、作った本人と話し合い、納得する方法を出すのがベストです。子どもがつくりだす作品は膨大です。すべてを捨てずに保管するのは大変です。たとえば、一定期間家のどこかに展示し、写真を撮って処分する方法もあるでしょう。

幼児は道具の使い方がまだ未熟で、出来上がった作品の精度は大人の目から見れば稚拙です。だからといって価値がないと判断され、「後片付けをしない」とか「ごみばかり増える」と小言を言われると、子どもの心はしぼみます。子どもは石ころ一つ、木切れ一つで様々なものをイメージする「見立て」の天才です。苦労して作った作品には、それだけたくさんの夢がつまっているのです。

このことは頭でわかっても、ものづくりへの共感と理解がないと心から納得できないと思います。散らかし放題の子どもを見ると、つい許せないと感じるのが自然な反応でしょう。以前「子どもが朝起きてすぐに作品づくりを始めるので、せかさないと朝食も取らず、登園時間にも間に合わないほどです。どうしたらいいでしょうか」という相談を受けたことがあります。

こういう時、小言を繰り返すのはお互いにとって損なことです。一度作業の場所と時間、後片付けの方法と出来上がった作品の処分の方法について、親子で十分話し合うとよいのではないでしょうか。ただし、大人は子どもの制作活動全般への敬意を胸にいだいて話をかわさないと、一方的な条件の押しつけになり、子どもは納得しません。

逆に、日頃から子どもの作品を「作品」として親が認める良好な関係があれば、あえて「話し合い」をしなくてもすみます。「散らかし」の問題も、「さあ片付けよう」と一声かければすむからです。一般に子どもが親を困らせる時、子どもはその行為を通じて親に問題提起をしていると言えます。根っこには子どものものづくりを親としてどう受け止めるか、という問題があります。

「うちの子は集中力がなくて」とこぼす親がいます。私はその子が家でどんな過ごし方をしているかをお尋ねします。お話をよく聞いていると、親がさほど価値を見出せないものに夢中になっているという答えが返ってくることが多いです。たとえば「家では絵ばかり描いています」とか、「廃材でいろんなものを作ってばかり。後片付けが大変です」というような答えです。このような話を聞くと、幼いころの自分を思い出しながら、自分が叱られているような気になります。

私は幼稚園時代、絵を描くことが一番好きでした。家に帰っても、絵ばかり描いていました。その次に好きなのは、レゴ(今と違ってシンプルな赤と白の二色のみ)でした。小学校に入ると、この2つに加え、ダンボール遊びが加わりました。小学校からの帰り道は、お店の前に無造作に置いてあるダンボールを引きずりながら家に持ち帰ったものです。家では様々な素材と組み合わせて色々なものをつくりました。たとえば「のりもの」と題した図鑑を開け、その写真と同じものをレゴで作ったり、紙の素材で再現したり、一人で納得いくまで取り組みました。「いつまで?」と問われると、恥ずかしながら「小6まで」と答えないといけません。

子どもの個性は皆違います。「なぜこんなものに夢中になるの?」というケースがほとんどだと思います。そうしたとき、「よく飽きもせずに取り組むねえ」と面白がる心のゆとりがあれば、子どもの個性は守られます。親の目から見て、どんなにつまらないと思えることでも子どもが時を忘れて没入しているなら、そっとしておきましょう(後片付けの問題は別に話し合うとして)。少なくとも、それを応援できるのは今しかありません。私は小学校高学年のときに、油紙を使って等身大の鎧と兜を作りました。それを身につけカシャカシャいわせながら親の前に「わっ!」と現れた時、両親がそろって腰を抜かすふりをしてくれたことを今も感謝しています。

子どもはいつか「ものづくり」を卒業するときがきますが、その取り組みで培った集中力と自立心は次のステージで活かされます。自分独自の「面白さ」の基準を持っている子は、学校の勉強でも工夫を凝らすでしょう。ノートの取り方、予習、復習の仕方、試験対策の仕方において自分にプラスになる方法を考え、作業の見通しをつけて、積極的に試行錯誤を繰り返すでしょう。

子どもたちは生半可な気持ちでは、ものづくりに夢中になりません。それは大げさに言えば、「よりよく生きよう」、「より面白く生きよう」、「より自由に生きよう」と欲する人間の本能に根ざした行為なのです。親として、生きる自由を味わっている子どもを応援しない理由はありません。

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