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平成27年3月14日。この日第65回目の卒園式を無事に終えることができました。全園児が最後まで集中して式に臨み、一人一人が立派に卒園証書を受け取ることができたと思います。式辞で「大器晩成」という言葉を使いましたが、これは平たく言えば「大丈夫です。きっとそのうちに」となります。

この日は朝から雨がふり、式後の写真撮影も室内で行いました。

式後はお食事会(於第一園舎)と謝恩会(於第三園舎)を開いていただき、ご招待を受けました。

第一園舎に足をふみいれると、そこは別世界。窓も壁も天井も、言葉で言い表せないほど精妙な切り絵細工で飾られていました。テーブルの上のランチョンマットから食事としていただくものに至る一品一品がそれぞれに由来や物語のある、心のこもったものばかりでした。

場所を第三園舎に移しての謝恩会は笑いあり涙ありのひとときでした。

お母さん方が練習を重ねた成果は100点満点では足りないほどすばらしいものでした。踊りもリズムバンドも旗体操も、みんな園児達が園生活で一生懸命取り組んだものばかりです。真剣な演技の一つ一つは、子どもたちの心も大きく揺さぶるものでした。

職員による出し物は、例年と趣向を変え、子どもたちの園生活を振り返る内容でしたが、その内容に沿って3年間をふりかえると、この幼児期の1年、1年は本当に大きな成長を遂げる時期なのだ、とあらためて感じました。

私からは、「卒園記念ビデオ」の一部(3年間の思い出をスライドショーにまとめたもの)を上映しました。子どもたちは自分がスクリーンに登場すると歓声を上げるのですが、一人一人の登場回数は何度も計算し直し、できるだけ等しくなるように調整してあります(笑)。

ここで取り上げなかった写真のストックは無数にあります。「卒園記念ビデオ」のジャケットを開けた右側のDVDに収めてありますので、パソコンでファイルをご覧下さい。

続いて保護者から教職員に頂戴した「努力賞」は、その内容といい、プリゼンテーションといい、全部を楽しませて頂きました。

最後に私が皆様に御礼を述べる機会をいただいた時、私は「雨のち晴れ」の格言に触れつつ、この言葉に相当するラテン語の表現に言及しました。私がちょうだいした「努力賞」の言葉にある「ラテンな情熱」というフレーズのおかげです。

何を申し上げたかと言えば、英語のAfter rain, the sun. に相当するラテン語はPost nubila Phoebus.といいますが、ラテン語の前置詞postはafterの意味とbeyondの意味があることです。そうなると、「雨(つらいこと)の後には晴れ(よいこと)がある」ととるだけでなく、雨雲の向こうには太陽が輝いている、すなわち、目の前を雨雲が覆っているように見える日々にあっても、それはけっして太陽がなくなったことを意味するのではない、と解釈できます。

園児が歌ってくれた曲(虹~きっと明日はいい天気)にこんな歌詞があります。

”あの子の遠足1日のびて
なみだかわいてくしゃみをひとつ”

卒園児たちが年少だったとき、秋の遠足が数日のびました。遠足が延期になった翌日から、Aちゃんはお母さんに手を振って一人で登園できるようになりました。

「いったいこの子はいつになったら?」と自問自答しながら部屋まで毎朝幼稚園まで付き添って下さったお母様。毎日雨雲が立ちこめるようなお気持ちだったと思います。雨がやんで晴れ間が広がる。同時に、雨が降っている日々にも、「きっといつか、きっといつか」と太陽を信じる気持ちがあったからこそ、あるきっかけで晴れ間が広がるのだと思います。

謝恩会後、私はそのお母さんと笑ってこの時期を振り返ることができました。

このお子さんにかぎらず、この年度は4月いっぱい、何人ものお母様が付き添って下さいました。私はお母さんと面談し、いつもきまって「だいじょうぶです。きっとそのうちに」という言葉を繰り返すのみでした。「何を根拠に?」と思われたと思います。単なる気休めを言っているだけと受け取られたかもしれません。当然、どのお子さんも人類史上初めてこの世に登場したお子さんです。過去の誰にも似ていないし、未来の誰とも違います。だから、私がいくら過去の例を思い出しながら、「だいじょうぶです」と申し上げても、「うちの子は別」と思うのが自然です。

私はよく申し上げたと思います。「年長になると、親身に年少の手を引くようになるでしょう」と。実際、帰り道コックリコックリ居眠りをする年少児の手を引きながら、「かわいいなあ」と笑みを浮かべながら帰路につくのが(年少時代お母さんが半年付き添われた)年長のAちゃんの姿でした。

雨のち晴れ。この言葉は真理です。永遠に雨ばかりということはありえません。

しかし、この言葉は同時に、晴れのち雨と続くことを示唆します。このことも確かなこととして受けとめなければならないでしょう。

ただここで視点を変えます。

「雨雲の向こうには太陽」と受け取るとき、実際自然界はその通り運行されていることに気づきます。

太陽とは何か。

夢や希望、何と受け取ってもよいと思います。

人が前向きになれるすべての言葉がここに入るでしょう。

雨のち晴れ。晴れのち雨。私たちは、つらい日々と無縁になれるとは思いません。

しかし、どんなときも、人間は人間である限り、希望を胸に生きる自由が許されている。私はそう信じます。

希望。何か素敵なこと、何かワクワクすることが起きようとしている。それが今日なのか明日なのかは神のみぞ知る。半年先?一年先?

信じるかぎり、必ずいつか。とはいえます。

でも、明日でないといけない?半年先では遅すぎる???

時間の制約は、みんな人間が決めたルールであり、自然のルールや運命はもっと雄大なスパンで一人一人の人生を操っていると思います。

最後に紹介したのは園児の次の俳句でした。

「おれの夢 宇宙の果てを 見つけたい」。

卒園児達は、この句を紹介したとき、誰の作かを即座にいい当てました。

子どもたちの心は真実なものに鋭敏です。

私は「大器晩成」と申しました。

すでにどの子も大きな大きな「大器」なのです。

その大きな器にどんな夢が盛られるのか、否、盛られているのか。これから先、どんなでっかいことをやりとげるのか。

私は楽しみに未来を待ちたいと思います。

みなに幸多かれ!3年間、ありがとうございました。

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