いろいろ考え事をするとき、孔子の言葉を思い出すことがあります。表題はその一つです。
「鮮(すくな)し仁」と続きます。
言葉が巧みでなくても、見た目でアピールするものが少なくても、孔子は気にかけません。むしろ、「木訥(ぼくとつ)仁に近し」と述べました。「木訥」とは無口で飾り気がないことです。
仁とは何か。一言で言えるものではないのでしょうが、私は「まごころ」だと思います。
子どもは不器用です。大人の目から見れば(いかに言葉が達者に見えても)木訥に違いありません。
英語で子どものことをinfant(インファント)といいますが、元はラテン語のinfans(インファンス)で「口のきけない」という意味です。
しかし、子どもたちの言動をよく観察しますと、まことに「仁」のかたまりだと言わざるを得ません。だとすれば、私たちが子どもから大人になるということは、本当は「巧言令色」を身につけることではないのでしょう。
むしろ、「仁」の心をそのまま持ち続けることが本当の大人になる道ではないかと思います。難しい道のりですが。
社会で生きる上で、最低限のマナーは大切です。しかし、人として何より大事なものは何であるか。
それを欠いては人が人でなくなるものは何か。孔子であれば「仁」だと答えたでしょう。
「仁」はいろいろな意味を含みます。相手の身になってものごとを見ることも「仁」といえるでしょう。
幼稚園の子どもたちは、好きなことをして遊んでいるだけではありません。毎日友だちと関わる中で、様々な交渉を通じ、広い意味で「仁」を磨いているのです。成長とともに見られる「葛藤」は、その証です。
ひるがえって、そのような子どもたちを見守る私たちはどうあるべきでしょうか。子どもたちをとりまく大人自身にも「仁」の心がなければならない、ということは言うまでもないことでしょう。
『論語』を読むと二千年以上昔の言葉には思えません。
P.S.
西洋の古典ではこのことについてどう教えているのでしょうか。
欧米では古来「人間であること」が尊ばれ、それを意味するhumanitas(フーマニタース)が「教養」を意味する言葉として根を下ろしています。
フーマニタースを「教養」と訳してしまうと大事な何かが抜け落ちた感じがします。「仁」もそうですが、簡単に他の言葉で言い換えにくい言葉というのがあります。
元になる言葉は「人」を意味する「ホモー」です。自分は人間と言えるのか。動物とどこが違うのか。他人の不幸を見て見ぬふりをして胸を張って人間だと言えるのか。欧米では多くの文人が「ホモー・スム」(私は人間である)を座右の銘に掲げてきました。
このことについて、以前「山びこ通信」にエッセイを書きましたのでご一読ください。
題して、「私は人間である」。
その内容を踏まえると、今後は「自分はロボットとどこが違うのか」、問うていく必要があるのでしょう。自分ははたして血の通った人間として人を敬愛できているか。自然の摂理を畏れる心をもちあわせているか、等。
煎じ詰めていえば、幼稚園はまさに「ヒト」と「ヒト」の「仁」の心の通い合うフーマニタースの場として、その国の社会を根っこから支える大事な場所だと信じます。
2学期のスタートを前にして、子どもたちの心にピントをあわせて、あれこれ大人社会のものごとを眺めています。