勉強は義務という意味合いを含み、学びとニュアンスを異にします。
山の学校は「楽しく学べ」を校訓に掲げていますが、学びと遊びはコインの表裏のようなものです。
幼稚園児のように喜々として学べという趣旨です。
学問につながる学びは、幼児の遊びと同じく心底夢中になれるものです。
私見ですが、幼稚園時代にとことん遊んだ子は、学校の「勉強」も「遊ぶ」ことができます。
遊びとは工夫の別名でもあります。指示通りに課題をこなすのは遊びではない。
たとえば試験でよい点を取るには何をどうしたらうまくいくか?これをとことん考え、工夫し、実践する。うまくいっても、いかなくても、常に試行錯誤して結果を検証して先に進んでいく。それは楽しいことです。広い意味で遊びです。
しかし、学問につながる学びとは一つ違う点があります。学問につながる学びは、自分で問いを見つけることです。
学校の勉強はその基礎になるのだろうと思いますが、基本的には答えがあり、先生の指示に従う必要があります。
大学以上で求められる学びは、自分で問いを出せるかどうかにかかっています。大学生がちょこんと椅子に座って、先生の話を聞くだけ、質問もしない、というのは考えられない姿ですが、今の日本の大学はおしなべてそうです。
だから、仕事的な勉強(入試のため?)が否定できない現実であるにせよ、せめてその取り組みについては、子どもが自力で壁を乗り越えられるよう、大人は環境整備に協力するにせよ、命令を含めた叱咤激励のたぐいは「レス・イズ・モア」です。
子どもの遊びも、大人が介入するものではない。あの遊びはいいが、これはダメと言われてするものではない。
あの友達と遊んでいいが、あの友達はダメ、と言われるものでも本来はない。1から100まで自力で自分の遊びに責任をもてる(厳密には大人の見守りなしには成り立たないが本人の意識の世界において・・・)と思えるから、遊びは楽しいものです。
学校の勉強(宿題や試験など)はできれば遠ざけたいと考える子どもは多いようですが、大人にあれこれ言われるからいやになるのです。言わなければやらないというのが大人の本音ではありますが、そのような関係になると収拾がつかなくなり、お互いくたくたになります。どちらが関係を変えられるかと言うと、大人です。
勉強は遊ぶとうまくいく。「勉強しなさい」というのは100パーセント効果はない。「工夫してみたら」というのはうまくいく可能性がある。ということです。「工夫してやってごらん。どうするかは自分で考えてみて。協力できるところは協力する」というのもありかと思われます。
子どものころ、親の目を気にせず一人で(あるいは友達と)思い残すことなく遊びこんだ人間には、このように言われなくても自分で勉強を遊べると思います。
だから、結論として、幼児期の遊びは重要だということになります。人生すべてにわたって、自立的に挑戦する姿勢を養っていると言えます。
最後に、この話と関連して、数学者岡潔氏と評論家小林秀雄氏の対談から引用します。
岡:人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむつかしい。 (小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』より)
地面に数式を書いて考え続ける岡潔氏の写真が心に残っています。それと、園庭で全力で遊ぶ子どもたちの姿は、私の中ではつながりあうもの、響きあうものとしてとらえられます。
夢中で遊ぶ子に声をかけてはいけない、とはばかられる気持ちは、数式に没入している学者をそっとしておこうと配慮するのと同じ気持ちだ、ということです。
>>楽しく学べ──Disce Libens. (2011-11)