午前中に教育相談がありましたので、今日の俳句は午後1時から行いました。昼からの取り組みなのであくびをしたり、もぞもぞしてもおかしくありません。ところが、卒園写真を撮るときのように皆がしっかりと最後まで集中できていたので、私は心のなかで「すごい」と思いました。

逆説的な言い方になりますが、俳句の取り組みは、子どもたちの日常がアクティブで自由に満ちるほど、その逆の取り組み(正座をし、先生が言った通りを復唱するのみ=自由度は低い)が光ってきます。

日常ががんじがらめであるほど、俳句をやる意味はないとさえ思います。

この日の年長児は、朝一番で年中児とペアをくんで「玉取リレー」を存分に行ったそうです。私は放課後知りました。両学年の子どもたちにとって楽しい時間だったと思います。こうした運動の取り組みも、一つの設定保育であり、ルールがそこにあるのですが、俳句しかり、運動しかり、積極的にルールという縛りを忠実に守る行為を通じて、広い自由(楽しさ)にふれる道が開かれていることを体得するのだと思います。

俳句の素読という一見「型」に終止する取り組みにどのような意味があるのか、きっと現代社会は疑問に思うでしょうが、古い昔から続いた取り組みには現代の言葉で説明しきれない大切な意味が隠れています。

100年先の幼稚園の姿を見ることはできませんが、そこでも俳句をしているとしたら、私はこっそり覗いてみたい気がします。それはたぶん、江戸時代の人が今の私達の素読の様子を見てどんな気持ちになるのかを想像するのに似ています。きっと厳粛な気持ちで見つめるように思います。

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