裸の王様という物語があります。

批判精神が衰退すると、国のレベルでも、個人のレベルでも、裸の王様の愚を犯すことになります。

明治以降の発展はめざましいものがありますが、教育の世界に目を向けると、裸の王様はたくさんいるように思います。

批判とは非難ではありません。よりよいものを生み出すための創造的精神のことです。

家のレベルでも、家族のよりよい関係を模索することで、批判精神が養われます。大人は子どもの言葉に真摯に耳を傾けなければなりません。

批判精神をしぼませるには、「黙って言うことを聞け」と一喝すればすむでしょう。

よく例に出すのですが、司馬遼太郎氏が「ニュー・ヨークってどういう意味ですか」と授業中に質問したら、「地名に意味などあるものか!」と一喝されました。この例は過去の話であり、今は違うのかどうか。

このようなユニークな質問を歓迎する空気が今の日本の津々浦々で支配的なのか、むしろ「進行を遅らせる」邪魔なものとみなされるのか。アンケートをしなくても、答えは明白でしょう。

学校の先生、もっといえば、先生と名前のつく職業は、裸の王様であってはならないと思います。

世の中にはさまざまなしがらみがあり、また、個人レベルでも、誰にもいろいろ失いたくないものがまとわりついていますが、それらがゼロになってなにが困るのか考える癖をつけると、本当に大事なものがなにか見えてきます。

私たちはもはや和服を着て生活をしない国民ですが、社会の仕組みや人間関係の基本については、いまだに良くも悪くも日本的であり、裸の王様を許す精神風土を守っています。明治の初めに「和魂洋才」というスローガンをかかげた時点で、教育は今も和服を着ているのだと思います。

好むと好まずとにかかわらず、また、彼らの国がそれに成功しているかどうかは別の話として、自由・平等・博愛の精神はどれだけ根付いているのか、疑問です。

民主主義の価値観は洋魂ですが、洋魂の根っこを研究すれば明らかなように、それは人間の学であり、東西、南北の区別をつけるものではありません。

日本がいやしくも民主主義国家を名乗るのであれば、教育もその方向で自己改革をしなければならなかったのですが、いまだに学校での主役は子どもではないようです。

今この国が学ぶべきは人間の学であると思います。

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