中国の古い言葉に「和して同ぜず」があります(孔子の言葉)。

この反対が「同じて和せず」です。

学校教育との関係でこの言葉の意味を次のように解釈しました。

幼稚園から小学校に上がると、子どもたちは無意識のうちに「同じもの」を目指すように促されます。「同じもの」とは文科省の定めた「正解」であり、国語の勉強を見ても「答えは一つ」ということになります。もちろん漢字の書き取りや算数の問題などを見れば、答えが一つであって当然なわけですが、国語も算数も、またその他の科目についてよく考えると、本当は答えは一つではないところに、あるいは一つの答えにたどり着くのに様々な道があるところに個々の教科の面白さが潜んでいます。

中学や高校では、試験で「満点」を目指す態度がいっそう奨励されますが、「百点を目指そう」と張り切る者はごく一部で、多くの生徒は次第に「無理しないでおこう」と決め込みます。一方、大学と高校の「学びのギャップ」は大きく、かりにセンター試験で満点近く取る生徒でも、大学に入ってカルチャーショックを味わう可能性は十分あります。というのも、よく言われるように、大学では知識を覚えること以上に、自分で考える力が問われるからです。

大学で教える先生方から出てくる一番の不満は、学生が「言われたこと<しか>しない」という点にあります。「言われたこと<を>しない」ではありません。試験範囲の勉強はちゃんとするのですが、それ以上の取り組みが不足していることに物足りなさを感じるのです。大学で主体的に学ぶには、中学、高校時代に、試験の成績を上げることと並行し、自分流の学びのスタイルを確立して勉強に取り組むことが不可欠です。様々なジャンルに関心を持ち、学校で教えない領域もあえて学びの対象にする。それには「読書」が一番です。

読書体験が豊富になると、文章を書く力が身につくだけでなく、想像力、発想力が豊かになります。「一を聞いて十を知る」タイプになれる、と言えばよいでしょうか。簡単にわかったふりをしないという態度も身につきます。本をよく読む学生は大学の授業後に積極的に質問し、先生との意見交換に喜びを見出します。一方、本を読まない学生に限って、たまに質問したかと思うと「試験範囲を教えて下さい」といった類いのことしか聞きません。教える側から見れば、その差は歴然としています。

読書経験を深めるには、図書館を利用するのが最も手軽でお金のかからないやり方です。多読派にとって、図書館は天国のような環境です。一方、読書には多読と精読があり、私自身の経験に照らすと、図書館で借りる本はあくまでも多読用であって、精読には向きません。精読するさい、本に縦横無尽に線を引き、書き込みをするためです。一度目はざっと読み通し、二度目に大事な所や気になるところに線を引き、三度目はそれらに注意しながら読み返し、最後にもう一度(あるいはそれ以上)通読します。これはデカルトが読者に期待した読書法ですが、さらに重要なことは心に残った箇所をノートに抜書きすることです。こうやって真剣に読んだ本の内容は頭と心から消えません。

多読にせよ精読にせよ、一人で本を読む場合、その弊害に気をつけなければなりません。多読と言っても読む本はどうしても偏りますし、精読については特にそうなります。また、どれだけ繰り返し一冊の本を読み返したとしても、自分の受けた印象や解釈は独りよがりなものになりがちです。その弊害を弱めるため、また、他人の意見を聞くことで積極的に新しい視点を得るためにも、読書においては第三者の存在が大きな意味を持ちます。

大学には自主的な学生同士で「読書会」を開く伝統がありますが、今も、これからも、この伝統が健在であることを祈ります。一方、中学生や高校生の場合、自分たちだけで同じことを試みるのは少し無理があると思われます。まさに、先達のあらまほしきかな。学校の先生にガイド役をお願いできたら最高です(ただし先生の価値判断に偏りがないことが望まれます)。科目を問わず、学校の先生も、本当は意欲のある少数の生徒と一緒に読書会を開けるなら、それにまさる喜びはないだろうと思われますが、いかんせんお忙しい。さりとて「満点主義」の進学塾にその代役を期待することもできません。

そこで、山の学校の出番です。私たちにとって、それは可能であるというより、それこそ山の学校が一番やりたいことなのです。2016年度から小学生の部に「れきし」のクラスが誕生しましたが、内容は大学の読書会と同じ、否、それ以上に丁寧にテクストに取り組んでいます。本を交替で音読し、未知の語彙があれば辞書で確認します。その後活発な議論が展開することは言うまでもありません。特筆すべきは、このクラスが当時小3男児の強い希望で開設された点です。

一方、中学生や高校生にとっては、学年が上がるにつれ試験対策で頭がいっぱいになるでしょうが、感性豊かなこの時期にこそ、先生や志を同じくする仲間とじっくり本を読み、意見を交わすことに大きな意味があるのです。山の学校の先生はみな、なんとか力になりたいと手ぐすねを引いています。今用意されたクラスに合流するもよし、このようなジャンルの本が読みたいと希望を伝えてもらうのもまたよしです。

はじめにふれたように、学校の勉強は全員が同じ答えに辿り着くことを理想とするのに対し、山の学校の各クラスは「和して同ぜず」の世界を目指します。付和雷同をよしとしがちな世の中にあって、私たちは、今までも、そしてこれからも、和気あいあいとした空気とともに、一人一人の「同ぜず」の精神を守っていきたいと思います。

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