文明生活を送るうえで、比較は避けて通ることができません。

大事なことは、比較してよいものとよくないものの見極めをきちんとつけることだと思います。

実際、比べようのない価値を比べてどうするのか、という場面は多々あります。

幼稚園が小学校以上の教育と決定的に異なるのは、比較に基づく評価を行わない点にあります。

もしそれを行った場合、「百年の恋も一瞬で覚める」ことは自明です。

情報化時代、人間は人間の無限の可能性について無知であるにもかかわらず、偏差値がいくつだから何%の合格率だとか、きわめて無責任なことをもっともらしく並べ立て、若い魂の挑戦する心を見事に摘んでいきます。

もちろん、まったくのデタラメではないにせよ、私はこれまでの人生を振り返り、数字の話はすべて「話半分」と受け止めるのが吉、と信じています。私もそうでしたが、合格可能性が低いという他者の評価は、見方を変えれば、「やる気に満ちた(無謀と紙一重の)生徒」という評価も可能です。今から半世紀ほど前に共通一次が導入されて以降、私のような「無謀な」生徒が影を潜めているとしたら、それはそれで残念に思います。

「なにくそ」とか「やってやるぞ」という自分で自分を叱咤激励する強い心の有無はペーパーで見抜くことは不可能です。

どのような時代になろうと、そのような気持ちを幼少時代に培うことは大切です。

こういうと、幼稚園時代に「表面的に」大人しく、なんでも「お先にどうぞ」という態度を示すお子さんをお持ちの親は、「うちの子はそんな気概はない」と決めつけるケースが多く見られます。しかし、それはその子の本質を見ていないことが多いです。

大事な力は、表面的にアグレッシブかそうでないか、で測定されるものではありません。逆に、アグレッシブに見えて、内心は臆病である、というケースもあるでしょう。

私が重視するのは、頑張るか、頑張らないか、その分かれ目で「よし、がんばろう」と自分で自分を鼓舞できるか、どうかであります。周囲にけしかけられて、他人との勝負に勝つぞ!と意気込む態度は長続きしないばかりか、そういう他者との競争では永遠に真の自信はつかないものです(「上には上がある」と感じてそこそこ何かに習熟してもすぐに諦めることはありえます)。

対象とすべきジャンル(スポーツでも音楽でも勉学でもなんでも)において、その対象をこよなく愛せるなら、他人との勝負の土俵に上がる必要はなくなります。

親は一般にこの土俵での勝負の勝ち負けに一喜一憂しがちなので、本人はやる気をすぐに失うのです(親の期待に応えられない、といって)。
※昨日書いた「応援団」の本当の意味は、他者との競争での勝ち負けを一緒に味わうことではなく、わが子の「絶対的価値」(=他人より数字的に上だからよいといった相対的価値ではない)を心から信じて応援してほしい、という趣旨でした。

肝心なのは、親が土俵での勝負(=他人との競争)を、まるでTVでひいきのチームの勝敗に一喜一憂するような態度で応援することを最初からしないことなのです。

つまり、最初に書いた、「比較」をやめる、と決意することです。

その子が何に夢中になっているのか。なにをしているときに時間を忘れているのか。それを注意して見守ればそれで十分です。

子どもを取り巻く応援団にとって、合い言葉は、Less is more.(少ないほど多い)。

どうしても、More is more.(多ければ多いほどいい)となってしまいます。

本人のためを思えばこそ、「あれをしたら、これをしたら」という類の提案はいくらでも思い浮かびますが。

それでよい、と信じる人も多い世の中ですが、その結果、そのmore (より多く)の部分が子どもたちにとって重荷となり、やる気を損なう方向で作用するのです。「もっと多くを学ぼう、もっと深く学ぼう」という気持ちは、当事者本人の心の声であるべきでしょう。

その心の声の存在を親は大切に見守る限り、子どもはどこまでも本来の力を発揮することでしょう。

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