『モモ』(ミヒャエル・エンデ)の言葉に次のものがあります。

「子どもというのは、われわれの天敵だ。子どもさえいなければ、人間どもはとうにわれわれの手中に完全に落ちているはずだ。子どもに時間を節約させるのは、ほかの人間の場合よりはるかにむずかしい。」

これは、人々から時間を盗もうと企てる灰色の紳士のセリフです。「時短」というと聞こえはいいのですが、『モモ』の文脈では、灰色の紳士がそれを推奨しています。

たしかに子どもは「時短」と無縁です。それゆえ大人はしばしば子どもをせかす必要に迫られます。

こう言うと、自分を責める保護者がおられますが、その必要はありません。

「時短」をよしとする風潮があれこそ、その反対の視点に意味があります。『モモ』はその視点に気づかせてくれる点で意義を持ちます。

大人にとって、子どものように何かに夢中になることは素晴らしいのですが、それだけで責任をもって世の中とつきあうことは難しいです。

無駄を省き、世の中のシステムに順応することだけをよしとするのも極端なら、その逆の態度も極端です。

要は、両方に相応の意味があり、そのことを心にとめることが大事だと思います(TPOにあわせて時計を意識したり、子どもと一緒にゆっくり空を眺めたり、どちらも大切)。

といったことを考えていると、ラテン語を学んでいる人から、次のメッセージを受け取りました。

ラテン語 Sapere audē. を、年初にあたり心に刻みました。
“audē”ということ、例えば駅などで、階段とエスカレーターがあるとき、あえて階段の方を選ぶというようなイメージを感じます。 ”乗っかって速く楽に”ではなく、自分の足腰と頭を衰えさせないよう努力していきたいと思います。ラテン語を読むことは私にとってその実践となっています。

ここで書かれているように、大人にとって、「時短」の誘惑に対し「あえて」手間暇かける道を選ぶには、相応の勇気(あるいは決断)が必要です。

車やバスを利用したらすぐなのに、「あえて」歩いてみるとか、一つ手前の停留所で降りて歩くとか。

不便をなんとか改善しようという気持ちは大人の意識ですが、同時に、不便を「あえて」楽しもうと考えるのも大人の意識です。(子どもは「不便」の前に無抵抗で、現状をそのまま受け入れます)。

要は「バランス」です。

そして、そのバランスを保つには、自分の言動を俯瞰する冷静な目が必要になるのでしょう。

『モモ』にせよ、その元ネタであるセネカの著作にせよ、私たちはこうした図書を開き、活字を目で追うことで、自分を客観視する視点を知らず知らずのうちに手に入れるのだと思います。

ということで、新年早々の読書の勧めでした。

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