金曜日は年長児のクラスで俳句を行いました。部屋に入る前から感じることがありました。誰もいないかのように静かです。先生からお話があったのだなと思いました。黙想をする時間も同じで、皆が心を落ち着けて静寂の時間を過ごすことができました。こういうときは私も気持ちがよいものです。
この日は新しい俳句を紹介しましたが、最初に「今から紹介する俳句がわかる人はいますか?」と尋ねてみました(ちょっといじわるですね)。もちろん誰も答えられませんが、一人だけ手を挙げて「はいく」と答えてくれました。「そう、新しい俳句です。よく聞いて下さいね」と言ってから芭蕉の俳句を紹介しました。
このブログでは再三書いていることですが、俳句の時間のよい点の一つは、集中して聞く姿勢を持ち続けなければ何もわからない、という経験を重ねることにあります。一つ前の俳句は完全に覚えたからもう大丈夫、というわけにはいきません。
この日紹介した俳句は、「昼見れば 首筋赤き 蛍かな」というもので、私はこの俳句を通して、子どもたちに伝えたい言葉がありました。それは、「集中」の二文字です。
蛍は普通夜に見ます。(こう言うと、僕も見た、私も昨日見た・・・という声多数)。夜に見る蛍を思い出してみると、首のあたりが何色かはわかりません。でも、芭蕉は蛍をお昼間に見つけたのです。よく見ると、首のあたりが赤い、ということに気づきました。このことを俳句にしたわけですが、このようにじっと虫を見つめる経験は子どもたちにとって日常の世界です。
「このように息を潜めてじっと一つのものを見つめることをなんと言うでしょう?」と尋ねると、みなシーンとする中、一人の女の子が「しゅうちゅう」と答えたのには驚かされました。
私は子どもたちに、自分たちが「しゅうちゅう」していると思う場面を思い出してもらいました。虫を探しているとき、「しゅうちゅうしている」。鉄棒で力を込めてふんばっているときも、「しゅうちゅうしている」。今日も、「しゅうちゅうして」黙想ができました。
こうして「できている」ときの経験を思い出してもらった後、(集中しないといけないのに)「できていない」場面を想起してもらいました。私が例に挙げたのは、お片付けの場面です。合図が聞こえているのに「まだいいや」と思ってぐずぐずしていないか、どうか。合図が聞こえたら・・・と言うと、「しゅうちゅうする」と全員が声を合わせました。
年長児ともなると、大人の言葉への憧憬が強まります。「ありがとう」という言葉は親しみのある大和古葉ですが、ときには例を挙げながら、「それを『感謝』と言います」と言うと、子どもたちの心には強く印象づけられるように思います。