昨日の続きを書きます。
「本立ちて道生ず」の「本」は「基本」のことだと書きました。
では「基本」とはなにでしょうか。
色々なジャンルで基本とされることは違うでしょう。
本質と言う言葉に近いといえるかもしれません。
だとすれば、孔子の述べた「本」とは、「それがないと成り立たないもっとも大切なもの(本質)」と言い直すこともできます。
幼児教育でいえば、先生の真心だと思います。たとえば、行事は「本質」ではありません。
行事は大切に違いありません。しかし、「結果としての成功」というとらえかたが大事です。
そのストーリーが成り立つ前提は、日々の保育で基本が守られることです。
それが何かと言えば、子どもと心の通い合いが成り立つことです。
先生の側に一人一人の子どもへの真心のこもった対応があるかどうか、です。
子どもは大人と違って言葉は巧みに操れませんが、心は大人と変わりません。
大人の心の本質を見抜く力は大人以上に鋭いといえるかもしれません。
大人が意図をもって近づくと、すぐに察知します。
大人が「目的意識」を横に置き、純粋に子どもと一緒にいることを楽しいと思うなら、その心も素直に察知します。
クラスの中に、そうした信頼が成り立てば、その結果、日々の生活も楽しいものになり、結果としての行事もすばらしいものになるのです。
世の中を見渡すと、この順序が逆になりがちです。
古来「今を楽しめ」と言われますが、言わんとすることは、未来の成功といった「目的意識」(それが「今」に影を落とす)をひとまず横において、今を大切に、と述べていると私は解釈しています。
今を大切にすると、結果として人間が想像する「目的」以上の豊かな未来がおのずと訪れる、という解釈もここから導けます。
このことをわかりやすくしたのが、日本の昔話である、ということはいつも言ったり書いたりしている通りです。