Dum docent discunt.(教える間、学んでいる。) というラテン語があります。英語ですと、To teach is to learn. と訳されます。子どもたちに、あるいは学生に教える仕事を少しでもすれば、誰もがこの言葉に共感できると思います。

私は今晩「山の学校」で「英語から古典語へ」という題でお話をする番なのですが、数日前から、自分にとって学校で勉強することが何であったのか、大学では何を夢見て勉強していたのか、そのときに信じようとした未来は今どのように見えているのか、などについてあれこれ考えを巡らせてきました。

その結果、自分にとって自分を見つめ直す大事な機会となりました。上のラテン語は、その意味で私にとって大切な表現なのですが、もし高校生・大学生の方がこのエントリーをご覧になったなら、友だちと自分の関係に置き換えてこの言葉の意味を考えてみてもよいでしょう。

自分では意識しない内に、友だちに何かを伝えようとして、真剣になることもあるでしょう。それは doceo (教える)ことと自分では思っていなくても、やはり、その友だちがいなければ、その人に伝えようとする自分の言葉や考えの道筋は育たないわけですから、その人の存在のおかげで、自分も成長できる(disco:学ぶ)と考えることはできると思います。

一方、親が子供を持って成長できる、という言葉も真実だと思います。子どもに教育する親は、自分を見つめ、自分が受けた教育を再認識し、自分が大切に思う価値を再発見する機会を得ている、と言い換えることも出来ます。

こういうと、多くの親は、自分にはその資格がない、と口にします。正解を用意しないと資格がない、というのは息苦しい気がしますし、その息苦しさ、うさんくささ(正解なんて本当にあるの?という疑問)を子どもは敏感に感じるものです。

教育に正解があるという立場は確かに我が国では根強いのですが、私は正解(ギリシア・ローマ的に言えば、「真理」(veritas))を求めて努力する立場に立てば、親も先生も気が楽になるし、人間として努力できるように思います。その姿勢が、子どもや生徒に「励まし」として映ると信じます。親も子も、教師も生徒も、誰もが不完全な人間として生きているわけですから、互いに山頂を目指す登山者(これが student (=努力し、汗をかく人)のイメージにぴったりです)として励まし合うことができると思います。

「教えることは学ぶことである」という言葉について、私は上のような感想を持ちました。

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