最新の山びこ通信に書いたエッセイを読み返しました。

>>そうだ、ラテン語やろう!

教育が迷走すると、和魂洋才どころか無魂無才になりかねないと危惧するこのごろです。

洋魂の根っこはピロソピアです。「知を愛すること」とは「これってなに?」「どうしてこうなるの?」といった好奇心あふれる子どもの心でもあります。

語源に照らせば、幼児は哲学者ということになるでしょう。

真理を求めてやまない心、それがピロソピアです。幼児にはあたりまえのようにあり、幼稚園では(どこであれ、と信じますが)その心は十分に尊重されています。

学校教育の特徴は、試験があり、成績がつく、という点です。それなりの意味はありますが、「哲学」を重んじる空気はどこにもありません。

もしそれを重んじるなら、成績を数字にして示すことはできないし、しないはずです。(ちなみに、幼稚園に通知簿はない。)

試験のない学校を想像できないと多くの人は思っています。もしそんなことをしたら、誰も勉強しないだろう、と。

まさにそのとおり。今の日本の学校は、すべて条件付きの「勉強」で成り立っていることの証です。だから条件を取り払うと勉強しなくなるという危惧もあります。

事実、一昔前は大学生は勉強しないと言われたものです。しかし今は違います。今の大学生はよく「勉強」します。どういうことでしょう?

それは大学が中学、高校のような学校教育の場に変貌したため、と言えるでしょう。

その証拠に、学生は授業中はもちろん、授業が終わっても「質問」しません(例外はもちろんありますが)。

このことに危機感を持つ大学の先生は少なくありません。根っこは学校教育にあると思います。

学校の先生を責めるわけにいきません。すぐに現状が変わるわけでもありません。

うまく子どもの知的好奇心を応援する方法があります。親が試験の数字に関心を持たない態度をとることです。(態度であって内心一喜一憂することは自由です)。

言うは易く行うは難しですが。子どもが学校に上がると、親の人生観、価値観が日々問われますね。

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