本日、ある方から「エチカの鏡」ですごいのを見たということで、噂の横峰メソッドのことを少し話しあう機会がありました。
私の考えは、勝負は大事、しかしそれはすべてではない、というものです。勝負はどうでもよいという風潮(今はどうかしりません)は問題ですが、逆に「勝てば官軍」という価値観も行き過ぎだと思います。
目で見てわかる成果は追求しやすいし、保護者にもアピールしやすいものです。それが大事でないと言うのではなく、それがゴールではない、ということです。
幼稚園の子どもたちは将来様々な仕事につくことでしょう。プロのスポーツ選手ばかりではないわけです。たとえば画家になる人がいるとしましょう。芸術家にとって、世間で言う「勝ち負け」は意味を持つでしょうか。
あるとすれば「己に勝つ」というモチーフかもしれません(その意味で、子どもたちに最初から「勝負を避ける」という傾向を助長してはなりません。ほどよく勝負する機会を経験させるべきだと思います)。
ピアニストならコンクールで優勝するという目標があると言うかも知れません。しかし、それは「世間」(およびマスコミ)の目標であり、芸術家本人が求める最高の価値とは異なります。逆に言えば、世の中には「無名の」素晴らしい演奏家は星の数ほどいるのです。また、そのような人たちの活動が(およびそれを応援する観客が)、真の意味での文化を支えていると私は思います(むろん、有名な演奏家もその一員として活動していることに違いはありません)。
絵や音楽がすばらしいのは、本当の意味でその作品の価値を「採点」できないからではないでしょうか。同様に、幼稚園時代が楽しいのは、先生による「採点」がないからではないかでしょうか。これは手抜きではありません。かりに採点したとしましょう。「百年の恋も冷める」のではないですか。教育にはこの「恋」の要素が重要なのです。これは本園の先生にもいつも言う台詞ですが、「行政から園児の成績をつけないといけない指導が入っても、本園は断固それを拒否する」。
芸術に限らず、優れた仕事はみな「点数で評価できない」要素を多分に含みます。しかし、せっかちなわれわれは、すぐに何でも「勝ち負け」をつけたがり、それに便乗した商売も成立します。
勉強の世界でも、一見「勝ち負け」があるようですが、それは違います。今の小学生から高校生までの勉強を見学したとき、一番の問題は「勝ち負け」にこだわりすぎる点です。それはなぜか。それがゴールだと子どもたちが錯覚するからです。
では、どのような弊害がどこにあるのでしょうか。大学生を見ればわかります(もちろん全員ではない)。大学で教える先生たちの生の声はちまたに届きませんが、先日ノーベル賞をとった先生が一言で言い切りました。センター試験は「教育汚染」だと。それはどういうことでしょうか・・・。
一言で言うと、今のシステムに乗っかると、好奇心を奪うようにできている、ということです。第一、現実社会に「正解はない」わけですが、このシステムでは「正解がある」という前提で成り立つのです。(文章の解釈という領域にまで「正解」があるとしている)。
ここから先は長くなります(話すと駐まらないでしょう)。夏休みで、時間が有り余る方向けに、次のリンク先をどうぞ。話すと90分ほどの内容をまとめたものです。題して「勉強とは何か?」
学ぶことの真の意味について書いています。
短いところでは、「新たなる挑戦」。これは山の学校の新しい船出を告げる文章です。
つたないコメントで失礼いたします。
今日偶然「勉強とは何か?」と、
この「園長日記」を拝見させていただき、大変共感しました。
現実は競争社会(学校も)ですので、点数評価は仕方ないですが、
(私も含め)大勢の大人も子供も学ぶことに対する情熱(魅力や楽しさ)を見失っていると思います。
私は2児(4才、1才)のパパですが、
大人になっても学ぶ楽しさを失わず、そして、少しだけでも評価に繋がるような、
工夫した子育てが出来ればいいなと思っている所です。
コメントをありがとうございます。flag さんをはじめ、すでに「おかしなこと」に気づいておられる方は私の周りにも大勢いらっしゃいます。そして各人各様に「工夫した子育て」を実践しておられるご家庭が多いことに私自身は希望を感じています。
しかし、制度というものはなかなか頑強で、中におられる方も矛盾を感じながらどこから手を打てばよいのか、日々もどかしい思いと戦いながら苦戦しておられるはず。実際、学校の先生方こそ、「目標設定」と「評価」でがんじがらめの毎日で気の毒です。
たしかに目標を設定し、それに向かって努力することは尊いのですが、他から強いられて行動するのと、自分で課題を課すのとでは大きな違いがあると思います。教育の大事な役割は、子どもの自立を支援することですが、教育の世界では先生の「自立」を阻害するベクトルが支配的です。もちろん、レジストする自由とその余地はあると思いますが。(ここで言うレジスタンスは政治的、イデオロギー的なそれとは異なります)。
ここで「自由」という言葉を口にすると、忙しいビジネスマンには「気楽」だとお叱りを受けそうですが、元来スクールとは「暇」という意味がありますし(ビジネスは文字通り「忙しいこと」)、我が国の場合、この「自由」の意味を「教育」との関連で、よく考え直すべき時期に来ていると思います。
私はこの問題を考える上で、一番大事なキーになるポイントは、「人を信じること」だと思っています。「制度」はその逆を行きます。性悪説に立つと、がんじがらめになります逆に言えば、園長や校長は「信じられる人」を採用すべきです。私が大事にしているのはその人の「まごころ」です。これがなければ話になりません。あとは本人に任せる(しかし「技術」の向上は常に応援し見守る)。逆に言えば、「任せる」と言えるだけの「責任」を園長、校長が取る必要があると言うことです。
同じことが家庭教育でも言えるはずです(夫婦は相互に信頼し合う)。そして、子どもの教育のもっとも重要な鍵を握るのがこの家庭教育です。これが盤石であれば、学校システムを超越したところで子どもたちは自信を持って大きく成長します。そもそも夫は妻の、妻は夫の人間性を「信頼」していっしょになるわけですから、いつもこの原点に戻ればよいわけです。
草木を見ると合点できるように、根っこの肥料がしっかりあれば、あとは大きく育つものです。子どもが幼いころのご両親のかかわりが、今ふれた成長の本質的な糧であろうと思います。そして、ご両親が「教育」と自覚されない自然な日常のやりとりにこそ、むしろ真実の教育が宿っていると思います。
自分の体面等のためでなく、その子の20年、30年先のためを思っての言動のすべてが子どもの心の支えとなります。また、生きていく上での希望の源になるのだと信じております。